地元 「三盛会」の「三盛まつり」開催

自坊も会員に一応なっている地元・傳通院前商店街の三盛会の「三盛まつり」が傳通院境内で開催された。

協賛もさせて頂いているが開催は日曜日なのでお手伝いも儘ならず。

 

朝から梅雨空で心配していたが予報通り開催時間の正午頃には雨が上がった。

 

ご本堂等の法務も有り一段落した午後2時半過ぎにちょっとお邪魔。

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しかし写真を撮る時にいつも感じるが電線が邪魔。

折角の山門が、、、

まあ国道や都道が優先されるので地中に収まるのは相当先か、、

 

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終了間近だったのでフラダンスや太鼓のアトラクションも既に終わりお買い物だけの時間になっていた。

一部では後片付けも、、、

 

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アップ中の現在(午後3時45分)も曇天だが雨が落ちていない。

多分、後片付けの今頃も大丈夫でよかった、、


知恩院 御影堂の平成大修理

浄土宗総本山知恩院の国宝御影堂の8年懸かりの大修復工事。

 

やっと9万枚とも言われる瓦も葺き替えられ屋根に関しては最終工程に入ったようだ。

 

先日届いた「華頂 7・8月号」から

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棟瓦にも謂れがある。 敢えて葺き残した瓦、、

 

私も棟瓦のご寄進もしたがどこに、、、

 

 

寄進にお邪魔をした時の写真(2015年5月15日)

 

工事中の御影堂はスライド式の素屋根に覆われていた。
素屋根

宗祖800年大遠忌に向け修復された北側の「集会堂」には修復中の御影堂の法然様の御尊像が遷座されている。
その為に工事中は集会堂は「法然上人御堂 みどう」と呼ばれている。

瓦寄進
ここで御影堂の「棟瓦」や「瓦」の御寄進。

申込み後は副住職がいつもお世話になっているY師の御配慮で平日は工事中で入れない素屋根の中に、、、、
素屋根2
若い職人さんが多く驚いた。

国宝なので元通り修復しなければならない。
解体しなければ分からない修復使用不可能な柱は同様の丸太(部材)を調達するのも大変だったのでは、、、、

工事現場なのでヘルメット着用、、
素屋根3

間近にみると本当に大規模、、、、、
素屋根5
大殿(御影堂)西側。

 

以上は2年前の写真。

 

巨大な素屋根はもうすぐ取り払われるよう。

まだ堂内の様々な修復が行われている。
 

 

 

 

 


日記  愚息の京都みやげ

副住職は三泊四日で旧都へ。

 

浄土宗総本山知恩院山内寺院での二泊三日の研修会。

その後の一泊は別の研修会に参加。

 

昨晩の懇親会は滋賀県大津だったようだ。

 

本日午後にJR在来線で京都駅へ。

いづうの小鯛雀鮨をリクエストしてあったが祇園の本店には寄れず新幹線口の売店では小鯛の雀鮨は品切れで鯖寿しをゲット。

 

それも一人前の棒寿しが一本だけだったとの事。

 

夕方、帰寺。

早速

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包装のラベルも夏バージョンに、、、

いづうは江戸時代 天明元年(1781年)創業。 236年前、

 

京都は内陸で当時は若狭湾から鯖街道で京都へ。

 

先日も大阪みやげで「すし萬 小鯛雀鮨」を買ってきてくれたが大阪は瀬戸内海に近いので小鯛の鮨の原点。

 

「すし萬」の創業は承応二年(1653年)現在の当主は第15代目。

 

京都や大阪では明治創業は「老舗」とは名乗れないと聞くがまさに創業360余年、、

「小鯛雀鮨」専門になってからも既に240年ほどの老舗。

 

大阪や京都の棒寿司は約240年ほど前に本格的に始まったかも、、?

 

先日のブログ    http://blog.takuzousuinari.com/?day=20170610 

 

 

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やはり棒寿しの定番で北海道の真昆布で包んで有る。

この昆布は当時、日本海経由の北前船で運ばれたか、、、

 

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美味しかった、、 いづうの小鯛雀鮨は良く口にするが鯖寿しは初めて。

ご馳走様でした!

 

備忘の為の日記でした。

 

 


霊窟(お穴)の工事

本日も梅雨の晴れ間で良いお天気に、、

しかし気温は正午頃には30度近くに。

 

午前中、出かける前に作業を見に行くといよいよ唐破風の前面の板を設置する所だった。1

 

帰寺後、再び見に行くと破風のその姿が、、

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飾りの釘も、、

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大工さんに聞くとちょうどシートの下のカーブした垂木の上に天井部分の板が張られ更にその上に二重に同様の垂木が載り屋根を形成する野地板が張られる凝った造りになるとの事。

お詣りの時はちょうど現在のように垂木が見える天井になる。

 

新規に鳥居が建つ基礎部分の最終工事も、、

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お社(お堂)に近い場所と階段上部には若干大きな鳥居、参道の部分にはサイズ揃った鳥居が15基設置可能との事。

大きい鳥居が建ったら写真に収め早めだが秋季例大祭のご案内と共に新規鳥居御奉納のお願いも、、

もう少し整備が進まないとご想像がつきにくいと思われるので、、、

 

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上部の本堂側から。

手前は崖上のかなり昔に立ち枯れの為に伐採した二本の古木。

職方が落ち葉等を片づけてくれたら根が朽ちて浮いた状態。

危険な状況なので近日中に植木屋さんに取り除いて貰う予定。

 

崖地が多いので石垣等々管理が大変、、、、

境内は武蔵野台(小石川台)の先端なので傾斜地で隣地や公道とは全て段差が有る。

境内内部でもこの段差。

 

昨年、境内整備の折りにおよそ670年ほど前の南北朝と室町時代初期に奉納された二枚(二基)の「板碑」(石板塔婆)もこの撮影場所付近から。

この樹木に囲まれた窪地は人工的なものでは無く自然に存在して礼拝場所に選ばれたものと想像に難くない。

 

 


霊窟 お社 再建 & 整備工事

昨日は嵐のような天候で作業は中止。

 

本日、再開。

午後に出先から戻り境内へ。

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霊窟を望む上部の 澤蔵司稲荷  本堂側から、、

白く見える囲い部分は新規にお願いする鳥居を設置する基礎部分。

 

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こんなにお詣りの方の参道が高いのは過去の大雨の時には池のようになってしまった為。

昨年までの本堂改修工事の時に本堂や書院等の屋根からの雨水はこの窪地に流れ落ちないように上部に排水溝を整備した。

お陰様で昨日の大雨でもほとんど雨水は溜まらなかった。

 

昨日の模様

心配で大雨の中、見に行ったが排水溝を勢いよく雨水が流れていた。

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大工さんはお社の腰板設置の作業

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四本の柱の補強の為だが上半分はお詣りの時に周囲が見えるようにとの配慮。

 

唐破風の垂木や蛙股等の装飾の設置は終わったがまだ正面の唐破風の板は設置されておらず屋根部分にはシートが、、

近々、全貌をご紹介できるのでは。


本日は長野県佐久へ

本日は副住職共々お会いしたい方が佐久市にお住まいなので日帰りで出かけた。

 

私は新幹線が速くて楽だと考えていたが副住職は久しぶりに二人で車でドライブとリクエスト。

昨晩、車のナビで検索すると関越道経由で約2時間半、、

 

午前10時半の約束だったので若干余裕をとり午前7時40分頃に自坊を二人で出発。

行きは私が運転をした。

 

果たして首都高5号、関越道、軽井沢経由の北陸道もガラガラで2時間かからず佐久インター到着。

 

約束の時間に早すぎるのでインターを降りてコンビニへ、、

お電話をするとOKとの事でお約束より30分以上早くお邪魔をした。

 

ご挨拶後、二時間ほど歓談。

お昼の心配をなさったので正午頃においとま。

佐久からは韮崎、甲府経由の中央道の選択もあったが軽井沢でお蕎麦を手繰りたかったので再び佐久インターから軽井沢方面へ、

 

途中の佐久平PA

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ここでも標高783辰△辰拭

 

旧軽井沢の目的のお店へ

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蕎麦処 川上庵へ

実はどこで昼にしようか考えておらず副住職の提案で急遽。

 

蕎麦前にもずく酢と味噌焼き

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ここからは副住職が運転するからとビールのお勧め、、、

 

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私は飲みながら蕎麦前を楽しみたいので天せいろは「ヌキ」で先に天麩羅のみ、、

 

一応、本日の目的も果たせ外の空気も爽やかだったので結局ジョッキ2杯も、、、

 

〆のせいろ

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私はいつも蕎麦を手繰る時は蕎麦猪口には薬味は一切入れず手繰る。

蕎麦の香りとつゆの味が一番分かるので、、、 美味しかった!

時期的に新蕎麦粉では無いが木島平産の蕎麦粉かな? 聞くのを忘れた。

 

あとは副住職に運転を任せ軽井沢インターへ

旧軽井沢の道路でロータリーの交差点

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ヨーロッパでは良く見かけるがこの回る矢印の交通標識は初めて!

 

1977年パリ凱旋門の上から、、

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そうか、、欧州は英国を除き車は右側通行なのでロータリは左回転。

40年前なので懐かしい車ばかり、、

2CVは写っていないがルノー5も、、BMW02は3台、、、

凱旋門のロータリーは確か道路が6方向くらいに分かれるので上の展望台から車の動きを見ていると面白くて離れ難かった記憶が、、、

 

 

上信越道を助手席から妙義山の山並みを楽しみ横川SAへ

 

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売店で夕飯用の釜飯を、、、

昔、新幹線が無かった頃は横川駅で勾配のきつい碓氷峠を登るために動力車を連結。

その為に結構停車時間が長く釜飯を買った思い出が蘇った。

 

購入後、上信越道から関越道に合流。車の量は若干増えたが全くスムースで1時間半もかからず帰寺出来た。

 

お陰様の一日。

軽井沢での蕎麦前にビールも副住職の配慮で楽しめたし、、、

 

PS

お夕飯(*^_^*)

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そう言えばスキー帰りの時、信越線の車内販売の細い「根曲がり竹」の入った駅弁も美味しかったのを思い出した。


一昨年、昨年の本日

一昨年は富山県へ出かけた。

6月17日に初めて北陸新幹線を利用して副住職と富山駅へ、

 

目的は先代住職が小学生の時に小僧でお世話になったお寺様への参拝。

 

もう一つは当時の商船大学所属、運輸省が管理し海の貴婦人と呼ばれていた練習帆船「海王丸」に再会するため。

1989年に新・海王丸が進水して現役を勇退。

この旧・海王丸には知人が教官で乗船しており商船大学の学生さん達の卒業・遠洋航海の出帆や帰投には晴海埠頭に出かけた。

そのたびに船にご招待され操舵室、教官室、機関室、教室、食堂、厨房、甲板もご案内頂き船内は隈無く知っていた。

勧められ風呂に入った事も、

愚息も小学生の頃は新造された新・海王丸にもお邪魔をした。

 

旧・海王丸の話はよくしていたので愚息は是非会いたいと、、

 

到着して直ぐに富山新港 海王丸パークに動態保存で係留されている海王丸へ、

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お久しぶり!!

乗船するとボランティアの案内の方もいたが現役当時の事はあまりご存じなかった。

二年前には既に現役を退役して26年が経過していたので、、、、

 

当時の晴海埠頭での現役の海王丸の練習航海出帆のお見送り

 

「登檣礼」(とうしょうれい)

遠洋航海に出かける時はお見送りに来ている方々に最高の御礼儀式(儀礼)。
海王丸1
バウスプリット(船首)のリーダーの合図でヤード上の全員が帽子を振り大声で「ごきげんよう〜!」「いってきま〜す!」
「登舷礼」と同じ儀礼。


その後、船が岸壁を離れると後輩達がカッターボートで追いかけやがて船が少し遠ざかると漕いでいたオールを垂直に揚げ別れの挨拶、、、、、

そして汽笛(霧笛)が、、、
思い出すたびに目頭が熱くなる、、、、
 

 

晴海埠頭停泊中の新・海王丸

教官は愚息に甲板の椰子の実での清掃の模様を説明。
海王丸2
当時、愚息は小学生、、、
新・海王丸の操舵室、船長室、貴賓室や機関室も御案内戴いた。

海王丸3
可愛がって頂いた、、、

こんなに子供だったが記憶に有ったようだ。

甲板の板は椰子の実で磨かれているので素足の方が気持ちが良かったのを思い出す。
 

 

その晩は富山駅近くに投宿。

富山湾のホタルイカや白海老が食べたくて夕飯で入った鮨屋さんの大將から今頃は北アルプス立山連峰の雪解けの水が豊富で称名滝が最高に素晴らしいとのお勧めが、、

二年前の今日は愚息のレンタカーの運転で称名滝へ。

出発して1時間ほどで称名滝近くの駐車場に着いたが登山道を歩く事30分。

 

鮨屋の大将のお勧め通り豪快な滝の姿が!

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左は日本一の落差350メートルを誇る称名滝。

右はハンノキ滝と呼ばれこの水量の多い時のみ出現する落差500メートルの大滝。

しかし夏場に水量が無くなり滝の姿は消えてしまうのでこの時期のみは日本一だが一時的なので認定はされていない。

今頃はお勧め!!!

 

学生の頃、北アルプス立山連峰の雪渓での夏スキーの合宿の時に登山バスの車内から遠くに称名滝を見た事があったがこんな近くまで行けるとは思っていなかった。

 

 

昨年の本日はお陰様で5月に結婚式を挙げた副住職夫婦が新婚旅行へ、、

挙式の翌日からは早速お施餓鬼法要が関係寺院で連日のように厳修され出仕やお手伝い。

また京都での研修会等もあり一ヶ月半が過ぎてからの新婚旅行だった。

 

南の島へ、

シンガポール経由の飛行機が到着した国際空港からは水上飛行機でホテルへ、

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送られてきた機内の様子

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コクピットは開けっぱなし、機長さん達は上は制服だが下は短パン姿、、

まあのどかな事、、、

行ってみたいが遠い、、、、

 

たまたまアルバムに過去の今日の写真があったので、、、、

 

 


本日も霊窟 お社再建 工事

霊窟 お社再建工事は昨日から木工作業も本格化。

 

作業場で刻んできた唐破風の垂木も乗った。

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唐破風の屋根の形状が見えてきた。

 澤蔵司稲荷  本堂脇の高台から見下ろした感じ。

 

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お穴様参道の階段上部より

新設する鳥居の基礎部分の左官作業も、

 

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小さなお堂だが屋根の全貌が分かると御詣り頂く頭上の蛙股や枡組の重要さが認識できる。

やはり以前のお堂と同じ唐破風の屋根にしてよかった。

 

昨日もお伝えしたが左官工事のモルタルを明日いっぱい乾かすので18日(日)は下までお詣り頂けないのでご了承願いたい。

 


霊窟 お社も少し姿が、、

お穴様の霊窟 御社(お堂)の再建工事。

 

先日、ご報告通り「立柱式」も厳修出来た。

 ブログ  http://blog.takuzousuinari.com/?day=20170607

 

その後は元の姿に戻すべく大工さんは作業場で部材を刻んでいた。

その間に「鳥居」を新規にお建てする基礎等の整備作業が、、

 

本日、午前中から刻んだ屋根部分の材料が搬入され本体の建築作業開始。


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刻まれた唐破風の部材

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唐破風は曲線を描いているので幅の広い木材から削り出す。

 

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屋根のカーブは以前と同様なのでやっと安心。

上部の「蛙股」は新調したが「枡組」の半分下は以前のお社で唯一不朽していなかった枡組を少し削り再利用。

他の檜の新材と色が違う雲形の部分。

 

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なんと無く完成時の全貌が分かりだした。

お陰様。

 

PS

明日は左官屋さんがこの場所の参道や鳥居を建てる部分の作業をして日曜日は乾燥の為に階段下まで御参り頂けないのでご了承頂きたい。


沙羅双樹 開花

境内には一本の「沙羅双樹」の木が常夜灯のある植え込みに植わっている。
30年以上前にピンクと白の花を咲かせる一対の沙羅双樹を参道に植えてあったがピンクの方は20年ほど前に猛暑の影響で枯れてしまい白い花を咲かせる沙羅双樹は現在の場所へ、、

日本で露地植え出来る沙羅双樹は「夏椿」に属するようだ。
毎年、今頃の梅雨時に可憐な花を咲かせる。

 

今年は例年より3〜4日遅れたが本日数輪が開花。

椿の花と同様に朝開花して夕方には花びらで散るのではなく一輪丸ごと落花する。
「平家物語」でも有名だが「諸行無常」の象徴として表現されたか、、、

 

数日前から気にして見ていたがまだ蕾だった。
開花時期が梅雨時なので傘を差しているとつい見落としてしまう、、

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暫くは楽しませてくれそう、、、、

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常夜灯のそばにあるのでお見逃し無く。。
 


今晩も江戸消防記念会第四区木遣親聲会の稽古

12日に始まった江戸消防記念会第四区木遣親聲会の稽古は今晩も。

 

写真撮影に書院に行くと指導中の総代の目にとまり本堂で稽古中にもかかわらず木遣りのお話しを、、

 

今、稽古中の木遣りは「千穐萬歳 せんしゅうばんぜい)と呼ばれる木遣りと初めて知った。

大政奉還の後、明治天皇は改元とともに一度江戸(東京)に行幸された。

その後、皇居御殿に正式にお入りになられたが明治天皇をお迎えする為に作られ皇居前で奉唱された木遣りと伺った。

その時の装束(着衣)や姿(立ち居振る舞い)も最高の敬意を顕す独特の姿と作法だったと、、、

 

お聞きしていても初めて耳にする木遣りで大変難しい節回し。

 

7月下旬頃に江戸消防記念会第四区の「大旗」が完成して8月上旬に 澤蔵司稲荷  ご本堂で入魂式が予定されているがその時にご披露の予定。

三人で掛け合う難しい木遣り。  (木遣りの言葉使いが間違っていたらご了承を、、)

 

お聞きすると教本には文言は書いてあるが我々の声明の経本のように「ハカセ」は書き込まれておらず口伝のようだ。

ただ現在はボイスレコーダ等での録音は将来の為に許しているとの事。

 

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5月6日のブログをペースト。 ブログの最後に「大旗」の完成予想図が有る。

 

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今朝は午前9時から「元六番組」(元六睦)の月例会に先立ち「六番組」会旗と日章旗の開眼入魂式を澤蔵司稲荷  本堂で挙行。

 

江戸町火消「六番組」は江戸時代八代将軍 吉家公の享保改革の一環で江戸町奉行大岡越前守により江戸町火消として設立された。

 

それから300年が経ち「会旗」が新調され入魂の式。

 

明治時代に近代消防となり町火消は江戸消防記念会として再編成され11区で構成され現在に至っている。

六番組も元六番組・元六睦としてその伝統を守る。

その為に元六番組は明治以降の地域割りで第四区、第三区、第九区の一分が属し連合組織となっている。

ちょっと複雑だが、、、

 

午前9時入魂式開始

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立派な会旗が完成

一見シンプルだか旗の生地、刺繍等は大変凝っている。

 

副住職が「先請伽陀」を唱う中、開眼入魂

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会旗を納める箱の中の「銘」にも、、

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「銘」の拡大写真

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有りがたい事に慈眼院・ 澤蔵司稲荷  の名も刻して頂いていた。

 

新調された日章旗にも、

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木遣不動尊前

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焼香

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恙なく厳修後、お祝いを、、

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元六番組高柳会長(第四区総代)からご挨拶

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その後、書院に移り毎月の元六番組(元六陸)の例会

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手締めで閉会後は目黒・祐天寺境内の慰霊碑のお詣りに。

 

7月下旬には江戸消防記念会第四区の「区旗」が明暦大火から360年、町火消組織から300年、明治期の組織改革市部消防組から150年、第四区木遣親聲会発足100年を記念して完成予定。

この区旗の大旗には所属10組の纏も刺繍されている立派な大纏に、、

8月に開眼入魂式を予定している。

 

完成予想図

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江戸消防記念会第四区木遣親聲会の稽古始め

今晩から江戸消防記念会木遣親聲会の若い筒先・道具中の木遣りの稽古が書院で始まった。

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筒先・道具中は「筒先 つつさき」や「纏 まとい」「梯 はしご」等の道具持ちとも呼ばれ江戸消防記念会では準会員になる。

正会員は頭取中であり各組の組頭・副組頭・小頭で役袢纏には肩筋に朱(赤)色が染められている。

本日は稽古始めでも有り多くの頭取中も稽古をご覧になり励ましも。

 

本当に第四区の親聲会は佳き指導者にも恵まれ稽古熱心。

様々な場面で木遣りをお聞きする機会があるが江戸でもピカイチだと思う。

稽古は17日まで。

恒例の六月は境内での梯子乗りの稽古が無いので木遣り稽古中の書院にはお入り頂けない。


第4回 表町町会 「ムクノキ祭り」 開催

昨年までのムクノキ祭りは雨模様の天候も多かったが本年は朝から快晴。

少し汗ばむ陽気となった。

 

町会の役員の方々は午前9時頃には集合して境内に出店の準備開始。

午前10時からは予定通り「むくのき物語」の紙芝居が、、

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昨年からご披露されているムクノキの歴史や地域、住民の方々との触れ合いを分かりやすく紙芝居で、、

お子さんは勿論、新しく町会に入られた方々にも好評。

テントの片側では綿菓子やポップコーンのプレゼントも、、

 

10時半からの本堂での護摩厳修に備え頭取中は書院で控え。

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成澤文京区長さんもお出でくださった。

 

大護摩厳修

 

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大護摩厳修後、私もご挨拶、引き続き表町町会長、祭礼委員長、江戸消防第四区高柳総代のご挨拶と続いた。

 

その後、ムクノキの前で御祈願

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木遣りの奉唱

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奉唱中に町会からご奉納された御神酒をムクノキに、、

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上部のしめ縄は毎年暮れに地元二番組のご配慮で締め替えられている。

 

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総代もムクノキにご挨拶

 

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高らかに町内に木遣りの声が響き渡っていた。

 

その後、境内では11時半から第二回目の紙芝居。

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お昼過ぎにはお開き。

ムクノキが文京区天然記念物第一号に指定されまる4年。

ムクノキ祭りも4回目になったが地元表町町会役員の皆様のご熱意でだんだん町会の方々にも認識されるようになった。

決して秋祭りのような賑やかさは無いが普段何気なく通り過ぎてしまうムクノキへの感心も高まってきたのでは、

 

昔は地域を守るご神木としてお買い物や 澤蔵司稲荷へお詣りの方がムクノキに合掌しているお姿を拝見する事もあった。

 

また江戸消防記念会第四区木遣親聲会各位にも感謝。

皆様お疲れ様でした。


大阪 すし萬の「小鯛雀鮨」  50年ぶり、

今から50年程前、大学に通っていた時に高校時代の運動部が一緒だった友人と京都、大阪へ旅行。

出かける前に彼の親父さんから大阪に行ったら「すし萬の小鯛雀鮨を必ず食べろ!」と言われた。

 

今から50年ほど前。

大阪万博(紀元2600年記念日本博覧会)が1970年(昭和45年)なのでその数年前の事だった。

 

友人の親父さんから聞いて食べた小鯛雀鮨はそれ以来 忘れられない味に、、

 

京都へ行っても「鯖鮨」や「小鯛の雀鮨」は必ず買ったり愚息のお土産に依頼している。

 

本日、愚息が京都での数泊の研修会修了後に大阪で一泊して帰京。

 

大阪の「すし萬」の「小鯛雀鮨」を頼んであった。

 

午後7時頃に帰宅。

 

待ちに待った、、

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恐る恐る開けると、、

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50年前に購入した時の場所は覚えているが友人とどこで食べたかは忘れた。

帰りの新幹線の車中だったかも、、、

 

今まで何故か購入する機会が無く50年ぶりの再会!

 

愚息が新幹線に乗った時刻は分かっていたので待ちきれずネットで検索。

「すし萬」の創業は承応二年(1653年)

現在の当主は第15代目。 私と一緒、、

 

京都や大阪では明治創業は「老舗」とは名乗れないと聞くがまさに創業360余年、、

「小鯛雀鮨」専門になってからも既に240年ほどの老舗。

 

一緒に食べた友人は若くして亡くなったが思わず彼の笑顔を思い出した。 

感謝。

 


明日は 澤蔵司稲荷 境内で第4回「むくのき祭り」

 澤蔵司稲荷  境内の前にそびえる老樹・椋の木は江戸名所図絵にも描かれている。

 

もともと慈眼院・澤蔵司稲荷に接する「善光寺坂」は江戸時代には存在しなかった。
明治維新後、傳通院寺領であった場所にも一般の方々がお住まいになられるようになり明治20年頃に生活道路として現在の傳通院山門から善光寺の下までバイパス道路が建設された。

坂の研究家の間では明治の坂に分類されている。

慈眼院蔵の「江戸名所図絵・傳通院境内」の拡大部分。

江戸名所図絵

中央が慈眼院・澤蔵司稲荷。
やはり石垣が確認できる。
一番左が「ムクノキ」 廻りには参拝の方がお休みできる「御茶屋さん」も、、、、

当時、バイパス道路建設工事で「ムクノキ」は邪魔になったが切り倒すことが出来ず現在に至っている。
昭和20年5月25日の山手大空襲で残念ながら上部半分以上が焼けてしまい私の若い頃は焼けただれた状態でフクロウも棲んでいた。

 

この椋の木(ムクノキ)は平成25年3月に文京区天然記念物第一号に認定された。

これを機に翌年から「ムク」に因み6月9日前後の日曜日に「ムクノキ祭り」が開催されるようになった。

 

明日は第4回目のお祭りが、、

町会の掲示板のポスターを撮影。

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境内にはポップコーンの出店も、、

午前10時と11時半にはムクノキ物語の紙芝居も。

 

午前10時半には 澤蔵司稲荷  本堂で護摩による御祈願も厳修される。

 

ムクノキの前でも江戸消防記念会第四区二番組頭取中による木遣りの奉唱もあるとお聞きしている。

 

 


霊窟(おあな)御堂 & 境内石灯籠の苔

先程、霊窟の御堂(お社)再建でお世話になっている棟梁(二番組 組頭)から電話。

 

7日に立柱式が終わったが大工さんが工務店で正面の唐破風に合わせる垂木等の加工をしているので一週間ほどは境内での作業は無いとのご連絡が、、

 

お詣りの方々もお社(御堂)の完成時の感じが掴めたので安心なさっているようだ。

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鳥居も取り払われて不朽の進んでいないものは奥の参道上部に移転予定。

 

御堂の建築作業が終われば新しい大型の鳥居も建つ予定。

また御信者様にもご寄進(ご奉納)のお願いも、、、

 

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本日は晴れたが東京地方も梅雨入りをした模様なのでシートも、、

 

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白い石版の下に有ったお揚げ御奉納用のステンレスの箱は撤去した。

奥には鉄格子が、、

 

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私が子供の頃はこの鉄格子は無かった。

中の穴は小石川植物園のお稲荷さんと繋がっていると言われ探検で中に入った事も、、

棟梁も子供の頃に悪戯半分、肝試しで入ったと盛り上がった。

 

現在は錆び付いているので入れないが、、、

そんなチビちゃん達は最近はいない。

昔はガキ大将が鼻水をたらした子分達を連れて徒党を組んで遊びに来ていた。

 

 

閑話休題

 

昭和30年後半から昭和40年代、高度成長で東京湾沿岸の工場の排煙や車の増加により都心の空気はかなり汚れ悪化した。

 

境内の樹齢数百年のケヤキ等も立ち枯れが有り伐採も、、、

新宿区の某交差点は窪地に有るので信号待ちの車は坂の上で停車をする規制も、、

この信号規制は何故か未だに続いているが、、、

 

その後の排ガス規制等で都心の空気も綺麗に、、

35年ほど前だったか職人さんから石灯籠等にこの苔が生えると空気が綺麗になった証拠ですとお聞きした事が、、

 

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この白っぽい苔(薄緑色)は空気が綺麗ではないと育たないようだ。

 

近郊や地方の神社仏閣では極く普通に見る事が出来る「苔」だが、、


境内から見つかった「板碑」

昨年4月に 澤蔵司稲荷  本堂修復工事が一段落して境内整備の時に偶然確認された二基の「板碑 いたび」

文化財的には「板碑」のジャンルになるようだが「板石塔婆」

 

一基は本堂東側の鎮守の杜の地蔵様の台座、もう一基は普段お詣りを頂いている禊ぎ観音様の直ぐ後ろの地面に刺さった状態で、、、

どちらも鎮守の杜に守られ昭和20年5月25日の空襲の火災は免れた。

 

職方から「どうしましょう?」と尋ねられ本堂脇に立てかけて貰った。

たまたまこの「板碑」等に詳しい方がお詣り来られ「貴重なものですから」と仰り教育委員会文化財係にご連絡。

翌日、学芸員の方が来られて「本物です!」と鑑定にお持ち帰りに、、、

 

ただ近隣の再開発の場所での発掘調査で大変お忙しく鑑定結果は本年1月下旬に持ち越された。

 

果たして古い方の一基は南北朝時代の北朝「暦應4年 1341年)、もう一基は室町初期の「永享10年 1439年」と判明。

 

板碑は鎌倉時代、南北朝、室町時代の戦乱の時代に武士の間で戦で亡くなった仲間の追善や自身を含め家族の安泰を祈念して奉納されたものと伝わる。

 

鑑定結果と共にお持ちになった学芸員の方からは古い物なので風化防止、盗難防止の為に室内保存をとの御進言。

 

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将来、記録として発刊される区内文化財の書籍に記載されるようだが、、

 

簡易の鑑定書

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ご説明では 澤蔵司稲荷 の東の低地には千川(谷端川)に沿って街道が有り間違いなくこの境内に奉納されたと、、

ただ江戸の大火や空襲等の火災で昔の姿で現存する物は文京区では少ないと、、

 

不思議な事に古い方は浄土宗第七祖聖冏上人がお生まれになった年。

 

二基目の板碑は太田道灌公が永享4年(1432年)にお生まれになった7年後の永享10年(1439年)

 

太田道灌公は「山吹の里」でも有名だが江戸城の前身である千代田城築城を長禄元年(1457年)に始められ築城中に乾(北西)の方角に光をご覧になり稲荷を建立したとある(現在の武道館付近)。

 澤蔵司稲荷 の御神殿・お厨子には太田道灌公の念持仏と伝わる十一面観音菩薩像も奉安されている(秘仏・非公開)

 

この二基の板碑はあの戦国の時代、聖冏上人が小石川談所、後の壽経寺の開創、お弟子の第八祖聖聡上人の増上寺建立を目撃された。

 

 

 

太田道灌公に纏わる境内・手水舎と以前の板碑のブログをご紹介。

 

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2017年2月22日のブログ

 

昨年4月に境内の整備中に発見され1月末に区の教育委員会文化財係の学芸員の方が鑑定書と共に自坊に戻ってきた「板碑」

 

板碑

包装された紙にも拡大した鑑定結果が添付されていたので本堂でご覧いただいた。

 

右は「暦應4年」(1341年)北朝時代(南北朝時代)

左は「永享10年」(1439年)室町時代初期の造立と判明。

            室町時代は應永(1394年)から、、、

            その後、応仁の乱も終わりまさに戦国時代へ、、

 

不思議なご縁で暦應四年(1341年)は浄土宗第七祖聖冏上人がお生まれの年。

 

聖冏上人は浄土宗が東国では「遇宗」「不庸宗」と呼ばれ我こそはと群雄割拠の時代に現在の浄土宗の宗脈・戒脈を整えられ五重相伝も確立された。

應永22年(1415年)現在の播磨坂付近の極楽水に傳通院の前身である壽経寺を建立する前に既に「小石川談所」として草案を建立。

小石川談所は壽経寺の建立の10年以上前にさかのぼる、、

 

現在の大本山・増上寺を明徳4年(1393年)建立された聖聡上人はお弟子様。

増上寺に現存する聖聡上人直筆の小石川談所の署名がある木版本「阿弥陀経本」にも、、、

 

今回、慈眼院・澤蔵司稲荷から見つかった二基の「板碑」は小石川談所、壽経寺建立、増上寺建立とあの時代を全て見守っている、、

 

670年ほど前の戦乱の時代に建立され鎮守の杜に守られ江戸の大火、関東大震災、昭和20年の空襲でも焼けずに残ったことに感謝。

 

申し訳無いが学芸員の方からも境内では風化や盗難等の事もありしばらくは非公開なのでご了承願いたい。

 

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2017年5月19日の手水舎のブログ

 

以前にもお伝えしたが 澤蔵司稲荷  参道右手の手水舎。

 

実は傳通院の十一間四面の本堂は明治41年12月3日夕方出火。

当時の新聞では第四消防署(現在の小石川消防署)や二番組消防手により懸命な消火に努めたが残念ながら本堂は全焼、庫裏の大半も焼失。無事だったのは山門・鐘楼のみで有ったと報じられている。

 

その後、 澤蔵司稲荷 に一人の宮大工が現れ「酒と飯」を毎日提供するならば傳通院本堂の火を被ったが焼け残った木材(欅材)で手水舎を建てるとの申し出が、、

二年間を費やし明治43年に完成と伝わる。

確かに手水舎の水盤には明治43年と刻されている。

 

傳通院 本堂は享保年間に二回大火に遭っている。

明治41年までの本堂は享保10年(1725年)に再建された。

現在の水舎の欅材は292年前の建築当時の建材。

 

01

お陰様で昭和20年5月の大空襲でも焼けずに現存。

ただ六年前の東日本大地震で各部に緩みが、、

屋根も傷んでいたので先年の本堂改修工事の時に合わせて屋根瓦を全部取り払い正面の広小舞(見切り)や破風部分等は木材も新調して修復。

ご覧になりにくいが庇(ひさし)小舞の下の二層垂木(たるき)の間隔も遊び心満点。

 

屋根の重さに比べ4本の柱が細いのでジャッキアップをして耐震性を高めるために基礎工事も、、

柱下部には正面を除き同じく欅材で補強。

 

先日から正面左右に、、、

1

 

2

 

手拭いの名前や纏からどなたの奉納かは直ぐに分かった。

粋な計らいに感謝。

(5月20日 追記)

 先程、二番組(な組)の頭(副組頭)がお出でになったのでお聞きしたら正式には「招き手拭い」と称する奉納手拭いとの事。

 御殿町組頭が永楽家(三区)と下町(六区)の組頭と共に染め上げたとの事。

 

 

手水舎正面虹梁の上の蛙股部分には特殊な彫刻が、、

3

 

太田道灌公が鷹狩りに出かけ強い雨に、、

近くの農家を訪ね「箕傘」の提供を依頼すると農家には「箕傘」が無く娘さんが替わりに「山吹の花」を。

歌と共に、、  「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」

その場面の彫刻が、、

 

実は当稲荷には太田道灌公の念持仏とされる十一面観音様が御神殿のお厨子に安置されている(非公開)。

 

当時、建築に携わった宮大工さんはご存じでこの彫刻を、、、

よくご覧頂くとその情景がおわかり頂けると思う。

 

また手水舎の他の三面にも獅子が牡丹の花と戯れている彫刻が、、

 

北側(左側)

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東側(裏側)

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南側(右側)

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四方の木鼻

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固い欅材に細かい彫刻まで、、、 

本当に宮大工さん、お一人の作業だったのか、、

 

修復の時に全て水洗いをして面取りも白の顔料で塗り替えた。

 

本年2月2日のブログ

  http://blog.takuzousuinari.com/?day=20170202

        この手水舎や常夜灯のご説明もある。

 

それほど大きな手水舎では無いがゆっくりご覧頂きたい。

 

 

 

 

 


発見!!

実は今朝、先程のブログの通り鎮守の杜の霊窟・お穴様の御堂(お社)の再建立柱式に先立ち腐食して危険な鳥居の撤去や移設のための工事が、、

 

鳥居の基礎部分を掘ると「土管」が埋設されていた。

 

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直径10センチ程の土管。

 

戦前は上部の境内の井戸からお社の左手に滝のように水を落とし行場のようになっていた事は先代からも聞いていた。

その水を汲み上げる為の土管かと思った。

 

しかし土管内部から「鉛管」が、、、

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鉛管の内部には電線が、、

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階段上部にあった汲み上げポンプへの給電の為の電線、、、

 

 

以前にお伝えした2007年6月23日のブログの抜粋

 

澤蔵司稲荷境内「おあな」にお詣りいただくと階段下の霊窟の左手に奇妙な場所があることにお気づきだとと思う。
行場
大きな縦長の楕円形の自然石とその前の窪地。
実はこの場所は戦前まで滝に打たれる行場にもなっていた。
上部からは境内の井戸から汲んだ水を滝の如く流してた。

その場所は「おあな」では一番低い場所なので水をポンプで汲み上げた。
汲み上げポンプ
最初の階段を降りた所にあるのはポンプの土台部分(鉄製)。
窪地に溜まった水をポンプで汲み上げ右横の水路から外部へ放水した。
しかし、戦争の時にポンプ部分の金属は供出されたと聞いている。
写真の如く鉄の部分はかなり残っているので既に終戦間近だったかも、、。
私が物心ついた頃からずっと同じ姿。
先達の心意気も感じられる。

 

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ここからまた本日「記」

 

このポンプは境内整備の時に撤去してしまったがこのポンプへの給電の為の電線と思慮される。

 

実は同じ電線が20数年ほど前に境内の「常夜灯」を移設した時にも発見された。

 

江戸時代から昭和まで花街として賑わっていた白山の料亭、芸妓家、待合や旦那衆で組織されていた白山の「永昌会」。
関東大震災の前年、大正11年にその永昌会の有志が澤蔵司稲荷境内に「常夜灯」を建立。

 

まさに小石川の高台の境内から灯台のように大正・昭和、戦後の街灯の少なかった頃は輝いていたのでは、、、、

 

その移設工事の時に常夜灯の火袋まで電線が無いので不思議に思っていたのだが常夜灯を解体したところ竿(胴石)の内部から今回と同様の鉛管に入れられた電線が発見された。

その時に電気屋さんから「これは軍艦や潜水艦に使われていた電線です」と、、、

当時、景観を考え地中から給電するための配慮だった。

 

その同じような電線が本日、霊窟の側の地中から見つかった。

 

ただこの揚水ポンプ建設の年代は記録に無いので不明だが多分同じ頃の物では、、、

 

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以下、2014年7月30日の常夜灯に関するブログをペースト

 

 

現在、正面の階段を登った左側の植え込みに有る「常夜灯」

江戸時代から昭和まで花街として賑わっていた白山の料亭、芸妓家、待合や旦那衆で
組織されていた白山の「永昌会」。

関東大震災の前年、大正11年に永昌会の有志が澤蔵司稲荷境内に「常夜灯」を建立。
常夜灯
元々は児童遊園に提供していた境内高台の石垣に囲まれる場所に有った。

幸いにも翌年の関東大震災、昭和20年5月25日の空襲でも被災せずに現存する。

胴は六面体の石積みで組まれ各石面には料亭、芸妓家、待合の名前が彫られている
珍しい造り。
常夜灯2

裏側の土台石には「灯明料110円也」と刻まれている。

境内の整備工事に伴い20数年前に現在の場所に移設した。

移設時に驚いたのだが上部「火袋」の部分へは地下ケーブルで給電され胴の内部には
船や潜水艦で使われていた「鉛菅」に電線が入ったケーブルで明かりを灯していた事を
確認。

まさに「灯明料」は「電気代」のようだった。
当時の1円は現在の貨幣価値では約960倍、、
約10万円ほどになるか?
その為に境内の他の庭園灯は午後10時頃にはタイマーで消灯するが現在でもこの常夜灯の明かりは日没から日の出まで明かりが灯っている。
当時の白山の料亭の女将、芸妓家、待合、芸者さんや旦那衆の心意気を伝承する為にも、、

それよりも当時の最新技術で施された電気設備と灯籠本体の価格はどのくらいだったか?
往時の白山界隈の繁栄が偲ばれる、、
落慶式の時には多くの旦那衆と共に料亭の女将や芸者さん達が大勢集まり華やかだったのでは、、、

若い頃は白山界隈に御祈願で出かけると三味線の稽古の音が聞こえていた。

また昭和40年代に小石川仏教会の花祭りが白山で開催されお練り行列のお稚児さんや我々の衣装替えは「見番」の2階の稽古場で着替えた記憶が有る。
確か今はマンションになってしまったような、、

この常夜灯建立当時の大正、昭和初期、戦後までは道路に街灯も少なくまさに小石川の灯台のような存在だったと思慮。
逆に私が子供の頃には両国・川開きの花火大会の花火を見る事が出来境内には多くの方々が訪れていた。

もう往時の白山の花街の賑わいをご存じの旦那衆もほとんどいらっしゃらないのでは、、、
江戸の粋を残す場所も少なくなってしまった。
 


霊窟(お穴)のお社(御堂) 再建工事 立柱式

 澤蔵司稲荷  境内のお穴様・霊窟は昭和20年5月25日の空襲でも鎮守の杜に守られ往事の姿を残している。

 

そのシンボルでもあるお社(御堂)は不朽が激しく崩壊の危険もあった。

 

この度、往事の景観を取り戻すべく再建する事に。

 

5月12日には解体の御祈願が、

 その時のブログ     http://blog.takuzousuinari.com/?day=20170512

 

5月31日には御堂の基礎工事も完了

      ブログ    http://blog.takuzousuinari.com/?day=20170531

 

今朝は刻まれた檜(ひのき)の柱も搬入され組み立てが、、

1

 

工事の関係と根元が腐ってしまった鳥居も取り外された。

少し低くなるが使える鳥居は右上の階段の方へ移設予定。

 

2

 

3

以前より基礎を鉄筋コンクリートで高くし手前側は柱が二本ずつに、、

安定感も増した。

 

午前中に立て方が終わり午後1時から「立柱・棟上げ」の御祈願を、、

4

 

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屋根は以前と同様に唐破風の屋根になる。

お詣り頂く上部の彫刻・蛙股等も新調されるようだ。

大体のスケールが分かり一安心。

 

参道に沿っての鳥居は大型二基は御寄進が決定、その間には若干小型だが大きさの揃った鳥居をお建てしたいので御信者様にお願いの予定も。

 

秋季例大祭(9月10日)のご案内と共に工事の進捗状況と鳥居御奉納のお願い状を早めに郵送予定。

 

日々、お詣りの方々も多くいらっしゃるが工事現場(建築中の御堂)直近までは無理だがお詣りはご遠慮なく。

ただお足元はお気をつけ願いたい。


江戸町火消 元六番組・元六睦 例会

いつもお伝えしているが毎月六日澤蔵司稲荷書院で江戸町火消し「六番組」であった「元六番組」「元六睦」の月例会。

「定式」(じょうしき)とも呼ばれているようだ。

毎月、所属の頭取中(組頭・副組頭・小頭) が集まる。
「六番組」にちなみ毎月六の日に例会が開かれる。

江戸時代の町火消しの組織「いろは四十八組、本所深川十六組」は明治時代になり近代消防に移行したことに伴い火消しの文化・伝統等を継承する為に江戸消防記念会として組織された。
現在の「一般社団法人 江戸消防記念会」 全体で11の区で組織されている。

小石川の地元は現在、第四区で二番組だが江戸時代には六番組「な組」として町火消しを担っていた。
その江戸時代の「六番組」はその組織を継承するために現在でも「元六番組」「元六睦」として現在の江戸消防記念会第四区とは所属がダブる組とダブらない組もあるが受け継がれている。
第四区では「な組」(現・二番組)「む組」(現・七番組)「う組」(現・二番組)が所属。


傳通院の本堂や庫裏の火災が明治41年に勃発したがその消火活動に当たったのも二番組だった。
二番組(御殿町)とは様々なご縁を頂いている。

 

今朝は午前9時前に開式。

我々の会議の開式と閉式は「同唱十念」だが頭取中は御手頭(おてがしら)拝借の一本締め、、、

この写真は撮りそこなった、、


1

 

その後、今月の予定等も発表。

昇進した頭取が有った場合はその報告とお祝いも、、、


役袢纏の下に着ているのは「総形袢纏」 ちょっとご覧になりにくいが、、
江戸町火消しの頃から伝わる各組独特の図柄の袢纏。

今度、役袢纏を脱いで頂きアップでご紹介も、、、

ただ暑くなって来たので袢纏は「絽」になり「総形袢纏」を下に着る事は少なくなったが、、、

 

月例会のあと今月は向島の「三囲神社」の木遣塚にご参拝。


3

役袢纏の9本線は「第九区」二番組  四本線は「第四区」七番組の頭取中

 


2

総代の役袢纏

第四区二番組と一目瞭然

偶数の区の袢纏の腰の柄は直線では無く波打っている。 粋。

 

この月例会は正月は東京消防庁出初式と重なり行われない。

8月もお休みだがあとは毎月6日に、、、

 

先月はこの「元・六番組」の会旗の「入魂式」も本堂で執り行われた。

 

5月6日のブログを再度ご紹介。

 

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今朝は午前9時から「元六番組」(元六睦)の月例会に先立ち「六番組」会旗と日章旗の開眼入魂式を澤蔵司稲荷  本堂で挙行。

 

江戸町火消「六番組」は江戸時代八代将軍 吉家公の享保改革の一環で江戸町奉行大岡越前守により江戸町火消として設立された。

 

それから300年が経ち「会旗」が新調され入魂の式。

 

明治時代に近代消防となり町火消は江戸消防記念会として再編成され11区で構成され現在に至っている。

六番組も元六番組・元六睦としてその伝統を守る。

その為に元六番組は明治以降の地域割りで第四区、第三区、第九区の一部が属し連合組織となっている。

ちょっと複雑だが、、、

 

午前9時入魂式開始

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立派な会旗が完成

一見シンプルだか旗の生地、刺繍等は大変凝っている。

 

副住職が「先請伽陀」を唱う中、開眼入魂

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会旗を納める箱の中の「銘」にも、、

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「銘」の拡大写真

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有りがたい事に慈眼院・ 澤蔵司稲荷  の名も刻して頂いていた。

 

新調された日章旗にも、

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木遣不動尊前

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焼香

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恙なく厳修後、お祝いを、、

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元六番組高柳会長(第四区総代)からご挨拶

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その後、書院に移り毎月の元六番組(元六陸)の例会

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手締めで閉会後は目黒・祐天寺境内の慰霊碑のお詣りに。

 

7月下旬には江戸消防記念会第四区の「区旗」が明暦大火から360年、町火消組織から300年、明治期の組織改革市部消防組から150年、第四区木遣親聲会発足100年を記念して完成予定。

この区旗の大旗には所属10組の纏も刺繍されている立派な大纏に、、

8月に開眼入魂式を予定している。

 

完成予想図

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