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「住職の独り言」ブログを開設して丸13年

今月でこの「住職の独り言」と題する稚拙なブログを開設して丸13年が経過した。

 

思い起こせばあの頃に私と同じ団塊の世代が退職を迎え出した頃。

同時にネット環境も一般化してデジタルカメラも普及。

散歩・散策の方々も増えご自身で散歩記録をブログにアップしだした頃だった。

自坊の寺院名や稲荷名で検索をするとかなりヒットして失礼ながら若干的外れのコメントも目につきだした、、

 

ちょうどその年に江戸時代に構築され緩みが生じ危険な状態になった公道に面する石垣の緊急解体修復の工事が始まった時。

 

その進捗状況や自坊や地域からの発信をしようと開設したブログだった。

 

石垣解体修復工事の支障になる樹木の伐採から日々解体され再び積まれていく工程は変化に富み毎日のようにアップをした。

 

その後も様々な修復工事や関係ご寺院での法要や行事、御縁のある方の慶事、弔事、お説教席も頂いていたので続けることが出来た。

たまには趣味や友人達との懇談や食事の席での話題で脱線することもあったが、、、

また宗祖法然上人の800年御遠忌大法要、東日本大震災、大きな水害や地震、、 大切な方とのお別れ、、

13年はあっという間、、 開設したときは還暦前だった。

 

このブログをアップする前に管理者ページで確認するとアップした数は13年で3588件、使用した写真は12133枚超。

お陰様でご覧頂いている皆様の応援で続けられた。

日々の閲覧数を見ると驚くことも、、、

 

最初のテーマはお伝えしたように石垣工事。

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終わってみれば元通りの工事。

確か1500個ほどの間知石(四角錐の石)を解体して再度組み直した。

上部の玉垣は国産小松石で新しくした。

 

江戸時代構築の証。レリーフは空襲で火を被らなかったので石工さんが苦労して新しい玉垣に組み込んでくれた。

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延岡藩寄進の階段脇の玉垣に組み込まれたお狐さんのレリーフ。

当時、延岡の教育委員会に寄進者のお名前が刻まれていたので問い合わせをしたが同じ名前の方が家系に何人かいらっしゃるとの事で年代は特定出来なかった。

 

本堂も3年ほど前に修復・耐震工事を、、

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築60年ほど経っていたので大変な作業になってしまった。

回り廊下や高欄は無垢の檜材で、、

屋根瓦も葺き替え天井裏や床下には耐震の工事も。

 

同時に参道手水舎も、

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昭和20年の山手大空襲でも焼けなかったので基礎部分を強化。

水舎も瓦屋根は葺き替え腐食部分は新しく補修した。

 

一昨年、ご縁が有る江戸町火消「な組」の木遣塚も、、

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昨年、塚の真棒の両脇に観音菩薩・地蔵菩薩も建立された。

 

鎮守の杜(保護樹林内)のお穴様の朽ちていた霊窟のお堂、鳥居も新設。

崖地も整備。

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再び参道に戻るがユニークな石仏

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「寛文九年 1669年」と刻まれているので多分、庚申塔では、、

近くには「天和三年 1683年」の観音菩薩を主尊とする庚申塔もある。

江戸時代、350年ほど前は一番庚申信仰が盛んだったとされる頃。

 

昨年の本堂改修修復工事と共に境内の整備をしたが大変貴重な「板碑」も見つかった。

 

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昨年8月14日のブログより

 

板碑は鎌倉時代、南北朝、室町時代の戦乱の時代に武士の間で戦で亡くなった仲間の追善や自身を含め家族の安泰を祈念して奉納されたものと伝わる。

 

様々な御縁で教育委員会の学芸員の方がお持ち帰りになり本年1月下旬に鑑定結果がでた。

 

鑑定結果と共にお持ちになった学芸員の方からは古い物なので風化防止、盗難防止の為に室内保存をとの御進言。

 

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将来、記録として発刊される区内文化財の書籍に記載されるようだが、、

 

簡易の鑑定書

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ご説明では 澤蔵司稲荷 の東の低地には千川(谷端川)に沿って街道が有り間違いなくこの境内に奉納されたと、、

ただ江戸の大火や空襲等の火災で昔の姿で現存する物は文京区では少ないと、、

 

不思議な事に古い方は浄土宗第七祖聖冏上人がお生まれになった年。

 

二基目の板碑は太田道灌公が永享4年(1432年)にお生まれになった7年後の永享10年(1439年)

 

太田道灌公は「山吹の里」でも有名だが江戸城の前身である千代田城築城を長禄元年(1457年)に始められ築城中に乾(北西)の方角に光をご覧になり稲荷を建立したとある(現在の武道館付近)。

 澤蔵司稲荷 の御神殿・お厨子には太田道灌公の念持仏と伝わる十一面観音菩薩像も奉安されている(秘仏・非公開)

 

この二基の板碑はあの戦国の時代、聖冏上人が小石川談所、後の壽経寺の開創、お弟子の第八祖聖聡上人の増上寺建立を目撃された。

 

 

太田道灌公に纏わる境内・手水舎と以前の板碑のブログをご紹介。

 

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2017年2月22日のブログ

 

昨年4月に境内の整備中に発見され1月末に区の教育委員会文化財係の学芸員の方が鑑定書と共に自坊に戻ってきた「板碑」

 

板碑

包装された紙にも拡大した鑑定結果が添付されていたので本堂でご覧いただいた。

 

右は「暦應4年」(1341年)北朝時代(南北朝時代)

左は「永享10年」(1439年)室町時代初期の造立と判明。

            室町時代は應永(1394年)から、、、

            その後、応仁の乱も終わりまさに戦国時代へ、、

 

不思議なご縁で暦應四年(1341年)は浄土宗第七祖聖冏上人がお生まれの年。

 

聖冏上人は浄土宗が東国では「遇宗」「不庸宗」と呼ばれ我こそはと群雄割拠の時代に現在の浄土宗の宗脈・戒脈を整えられ五重相伝も確立された。

應永22年(1415年)現在の播磨坂付近の極楽水に傳通院の前身である壽経寺を建立する前に既に「小石川談所」として草案を建立。

小石川談所は壽経寺の建立の10年以上前にさかのぼる、、

 

今回、慈眼院・澤蔵司稲荷から見つかった二基の「板碑」は小石川談所、壽経寺建立、増上寺建立とあの時代を全て見守っている、、

 

670年ほど前の戦乱の時代に建立され鎮守の杜に守られ江戸の大火、関東大震災、昭和20年の空襲でも焼けずに残ったことに感謝。

 

申し訳無いが学芸員の方からも境内では風化や盗難等の事もありしばらくは非公開なのでご了承願いたい。

 


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