例年だとお詣りの方々にお楽しみ頂いたソメイヨシノも葉桜になり「新緑が綺麗な季節になりましたね〜!!」と境内でお声がけをする季節。
しかし昨年暮れ頃から中国武漢を発端に全世界に蔓延をした新型コロナウィールス、、、
日本でも感染が広がり先週、7都府県に緊急事態宣言が発令(発出)された。
幼稚園から大学まで新学期も始まらず入社式も簡便に済まされたりいつもとは全く異なる新緑の季節になってしまった。
ソメイヨシノは葉桜。 奥の普賢象の八重桜は五分咲き。
本日の普賢象の八重桜
このふくよかな普賢象の八重桜の方が櫻らしく私は好み。
雄蘂の姿が普賢菩薩が乗る象さんの牙に似ているから命名されたとも、、、
ブログのアップは9ヶ月ぶり、、、
ブログは2019年8月7日 町田・養運寺様での施餓鬼法要のお説教席のご報告が最後だった。
実はその時にお伝えした通り5月のお施餓鬼法要でのお説教席から戻ると喉に違和感があり体調も若干優れなかった。
7月のお盆明けに近所の耳鼻咽喉科を受診したところ大学病院へ行きなさいと紹介状を渡されてしまった。
果たして診察結果は咽頭癌と食道癌だった。
早い入院を勧められたが8月7日の養運寺では声が出せるうちの最後のお説教席になるのでどうしても務めたかった。
その翌日から検査入院で旧盆中の8月14日に15時間に及ぶ手術。
手術内容は声帯摘出、食道も摘出。
耳鼻咽喉科と食道胃腸外科の2チームのドクターや看護師さん達15名ほどの手を煩わさせてしまった手術だった。
朝の8時過ぎには手術室に私を見送った家族は待合室だが他の待機家族はどんどん手術終了の案内が来て退出したが私の家族は午後11時頃までの長丁場だったとあとで聞いた、、、
施術のドクター、関係の方々、また家族にも本当に心配をかけてしまった。
その後、入院中から放射線療法も、、、
退院できたのは師走に入ってからだった。
その間にも大勢の方々から励ましのお言葉やお心遣いを頂き家族もどんなに心強かった事か、、、
改めて御礼を申し上げます。
境内の藤の花もちょうど京都の浄土宗総本山 知恩院の御忌大法要にあわせて咲く。
声帯を摘出し発声が出来ずもどかしい時も、、、
食道も摘出して胃を持ち上げたり小腸を移植して食道の代用にしているので飲み込んだ時になかなか胃に落ちない時も、、、
与えられた人間の身体は何一つ無駄なところが無いと実感しているところです。
まだまだ元気な頃の生活とペースには戻れておりませんがゆっくりと、、、
ただお電話を頂いても声が出せず電話口に出られませんのでご了承を。
本当にご心配をお掛け致しました。
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以前、高速道路が一時無料化になり3時間45分ほどかかったトラウマでネットの首都高交通情報を綿密にチェックしていたがそれほどの渋滞も無いので午前10時5分頃に車で出発。
お陰様で首都高3号線の下りは渋谷近辺と東名青葉付近で若干の渋滞があったが246号下りはスムースで
午前11寺50分頃には無事到着。
養運寺の御住職は一年お若いが大学時代からのお付き合いと青年会活動を通じて既に半世紀以上のお付き合い。
若い頃は結婚披露宴の司会も仰せつかったりカンボジアの難民救済も一緒に、、、
養運寺は二年がかりで三年前の5月8日に御本堂や観音堂、書院の一部の再建工事が終わり落慶式が厳修された。
本堂裏の駐車場に登れる道も整備されているのだが私はあえて毎回参道下の駐車場へ、、、
写真を撮ったり境内の様子を拝見する為に。
養運寺には既に二十年以上お邪魔をしている。
私の先代も布教をしていたが説教師は自坊(自分の寺)を出る時から説教師であれ。
到着したら境内の様子や堂内の設えに目を配り御住職方のご配慮を受け止めろ。
ご本尊様にお詣りをして堂内の荘厳等にも目を配れ、、
説教が終わったらご寺族のご迷惑にならぬようすぐにおいとまを、、
口癖だった。
その為、泊まりがけの地方でのご依頼以外私服で出かけた事が無い。
事前に御住職に例年の法要とは何か違うか、お伝えしたい事が有るかお聞きすることも有る。
法要の主旨は勿論だが境内整備や御本堂の印象など感じた事をお伝えする場合も、、
ブログでも境内や御本堂の様子をお伝えしているが自分自身の日記、、
来年お邪魔をする時の参考になる。
参道入り口の公道に面した駐車場に、、
掲示板には私の名前もお知らせを下さってあった。
本日も猛暑、、、
参道の階段を登ると山門が、、
養運寺の「山号」は「鶏足山」
奥には三年前に落慶したご本堂が、、、、
観音様もお出迎え。
この階段を上るアプローチが楽しみで本堂裏にも駐車場が完備されているが山門下に駐車して階段を上る。
でもこの石段をいつまで元気に上がる事が出来るかな?と思う年齢になってしまった、、、、
樹木の手入れを拝見するのも楽しみ、、、
再建の御本堂は伝統的な入母屋造の屋根と唐破風の向拝、。
立派!!
本堂脇の観音堂も再建。
以前の観音堂は入母屋の屋根だったが本堂とは逆に方形のお屋根に、、、
住職の拘りか、、、
現・住職がお建てになった鐘楼堂
何年前だったか、、、
私の寺の御信者様がそばにお住まい大晦日には年越しの除夜の鐘を毎年楽しみにしているとお聞きした事がある。
本堂向拝は唐破風、、
黒い部分の紅梁の間の蛙股や唐破風の飾りの彫刻は以前の御本堂の彫刻を再利用。
200年前の本堂を解体した時に保存して再利用。
素晴らしい、、、
虹梁の彫刻も素晴らしい、、
木鼻の獅子も、、
本堂内陣
正面の弥陀三尊様は400年以上前(室町期)に造立され町田市の有形文化財にも指定されている。
住職・副住職の希望で一尺以上の丸柱や内陣の紅梁、欄間は200年以上前の建造でもったいないので再利用を希望したようだ。
多分、設計段階では全部新材の方が楽だったと思慮。
解体作業も慎重に進めなくてはならず大変だったのでは、、、
歴史のある古材は絶対使うべきだ、、、
何百年の歴史(年齢)がある、、、
内陣、天井は格式がある折り上げ格天井に、、、
堂内の斗組・欄間も素晴らしい!以前の御本堂の名残、、、
午後1時からお説教席 お檀家様と共に空調の効いた御本堂で気持ちが良かった、、、
この左脇にもお座敷があり50人ほどのお檀家様で満堂(満室)だった。
ご報告と御礼
本日の養運寺のお施餓鬼法要の法話には私一人でお邪魔をしていたが今回は副住職にも同道を依頼した。
実は5月頃から声が涸れお説教(お取次ぎ法話)の疲れかと思っていたが7月のお盆やお施餓鬼での法話が一段落しても喉の調子が思わしくなく病院へ、、、
果たして「咽頭下部に癌」が、、
急遽、明後日に入院して来週声帯まで摘出の判断が、、、
どうしても養運寺さまでの私の肉声による法話をさせて頂きお檀家様にも御礼とお詫びを申し上げたかった。
幸い本日の入院前の検査は明日に伸ばすことが出来て本日の法話は勤め上げることが出来た。
今後の経過は落ち着きましたらご報告をさせて頂きます。
長いこと有難うございました。
お陰様の一日だった、、、
ご参考に以前の御本堂
このご本堂でも長年お説教をさせて頂いた。
あるいは先代御住職の表葬儀、現・住職の晋山式等々懐かしい思い出の御本堂。
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澤蔵司稲荷境内も「さわやか憩いの広場」として賑わった。
本日は日曜でも有りお詣りの方や来客であまり写真を撮影することが出来なかった。
境内に出るとちょうどお馴染みの「江戸大神楽」の演技
蒸し暑かったので獅子舞の演技も大変だったのでは、、、、
私はお昼過ぎから近隣のお寺でのお施餓鬼法要に出仕(随喜)
アメッシュで雲の動きを見ていなかったが一か八かで自転車で出かけることに、、
無線でTAXIを呼ぶにも境内付近は混雑しているし大通りまで歩くのも大変、、
出発して坂を下りだしたらお若いご夫婦が浴衣姿でほおずきと朝顔の鉢をお持ちだったので思わず着物の袂からカメラを取り出しパチリ、、、
関係寺院の山門
いろいろと雨に備えた支度もして出かけたが有り難いことに帰路も雨には遭わなかった。
九州地方は大変な事になっていると朝のニュースで報じられていたが全くその後の事は、、
台風5号や梅雨前線はどうなっているのか、、、
お見舞い申し上げます。
]]>彼とは浄土宗の僧侶となるべく傳宗傳戒道場も同行。しかも同じ班だった。
既に学生時代からは半世紀に及ぶお付き合い。
隅田川(大川)は私の大好きな清洲橋(吊り橋構造)を渡り深川へ、
しかし今春からオリンピックへ向けて橋の改修やライトアップ工事?で足場がまだ架かっていた。
良信院山門 車だったが駐車場は満車でお隣の雲光院さまの境内に停めさせて頂いた。
14年前に木造の旧本堂から新しい本堂・書院が落慶した。
説教席は古い本堂の頃からなので既に20年近くお邪魔をしている、、、、
あの頃はエアコンも無く暑かった、、、、
私もお檀家様も座布団に座っての説教席で目の前にお檀家様がいらっしゃるので見かねて団扇で扇いで下さった思い出も、、、
六地蔵様もお出迎え。
14年前の本堂・書院等の新築の時に地元の方々が昭和20年3月10日の大空襲で犠牲になられた方々への慰霊のために安置された。
こちらの町内でも多くの方々が犠牲になられたとお聞きしている。
お玄関の傍のお地蔵様。
右の平和地蔵尊はやはり昭和20年3月10日の大空襲で多くの犠牲者がでた為に御先代住職が建立。
左は新築された時に現御住職が建立された水子地蔵尊。
早めに到着したので御本尊様へ御挨拶。
三年前にご縁が有り千葉県から遷座された台座から光背まで2?を超す立派な阿弥陀様。
右側は善導大師、左側は法然上人のお像。
左の位牌壇中央阿弥陀さま
昔は説教所に安置されていたとお聞きした。
お厨子の扉の内側には観音菩薩・勢至菩薩、更に善導大師・法然上人が描かれた珍しいお厨子に入られている。
本堂外陣の施餓鬼壇(五如来壇)
本堂再建の計画段階から施餓鬼壇奥の額も心に描いていたようだ。
私の法話の前に住職から最近の出来事やお檀家様へのご報告も、、
午後1時から私の説教席
あまりアップは好まないので全体をと近くのお寺の住職さんにお願いしたが結構アップが、、
この写真の私が一番小さかったので、、、
住職さん 写真有り難う。
既に本堂はお昼の「お斎 おとき」を召し上がったお檀家様で満堂だった。
本堂内にお入りになれず廊下や書院のモニターテレビでご覧のお檀家様も、、
本年は土曜日だったのでご家族連れも多かったようだ。
良信院は昔は7月22日がお施餓鬼の法要だったが7月20日が「海の日」で休日に制定されたので本堂再建後は本日に変更、、
しかし、その後、祝日法が変更になり必ずしも7月20日が海の日にはならなくなった。
本年は14日の日曜の次の日、お盆中の15日が海の日で連休だった。
海の日に拘る方々は憤慨しているようだが、、、、、
午後2時からお施餓鬼の法要開始。
6年前に友人の住職は僧階が「正僧正」に叙任され仲間では一番早く「緋」の衣を被着出来るようになった。
外陣飾りの施餓鬼壇前で「表白 ひょうびゃく」の奉読。
お施餓鬼法要の趣旨を述べる作法。
私はここまででおいとま。
明日もお施餓鬼の法要が続く、、、、、、
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帰寺すると澤蔵司稲荷境内では43回目を迎えた文京・朝顔ほおずき市が佳境
澤蔵司稲荷境内は「さわやか憩いの広場」として解放。
台風5号は九州方面に豪雨をもたらしているようだが都内は心配された雨も
降らなかった
射的
大道芸・ヘブンアーティストによるパフォーマンスが、、、
明日も開催されるがお施餓鬼会の法要の為に楽しむことが出来ないかも、、、、
境内に出店している町会の町会長さんやスタッフの方から何杯も生ビールの差し入れを頂いてしまった。
ご馳走様でした&お疲れさまでした。
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東京地方は7月に入り雨や曇りばかりで一昨日までの7月の日照時間が5時間未満の新記録を更新と報じられていた。
しかし17日は満月だったが奇跡的に午後から晴れ間が覗き綺麗なお月様を拝むことが出来た。
ただ現在、東シナ海を台風5号が北上中で梅雨前線を刺激して本日は荒れた天気になると昨晩の予報だったが昼前から晴れ上がった。
午前11時過ぎに出発したが気温は30度C未満、、、
毎年猛暑で特に練馬区は東京23区の中でも気温が一番高くなる場所で昨年は36度Cほどになった。
仲台寺は戦後までは田端の近くに有ったが都市計画(区立小学校の拡張工事)等の為に現在の場所に移転した。
東京教区豊島組は文京区、板橋区、豊島区、北区等に70ヶ寺が集中してるが仲台寺は練馬区に移転しても自坊と同じ豊島組に所属している。
我々、東京教区の地域割りでは練馬区は城北組になる。 教区内にも移転に伴い同様なケースが何ヶ寺かある。
自坊の先代住職も移転前の昭和33年から平成4年(85歳)まで35年間ほどお施餓鬼やお彼岸の説教にお邪魔をしていたお寺。
私も先代ご住職から御教導賜ったが現御住職は同い年だが早生まれのため学年は一年先輩だが大学時代から半世紀以上のお付き合い。
ご先代御住職は昨年が三十三回忌だった。年が経つのが本当に早い。
仲台寺山門
山門を入った左手には庚申塔
主尊は如意輪観音さまで左側には「寛文八年」(1668年)と刻まれている。
江戸時代一番、庚申信仰が盛んな頃。
台石には庚申塔独特の「三猿」の彫刻も施されている。
田端からの移転の時に移されこの場所に奉安されたのでは、、
江戸時代、御府内から少し外れた文京区の一部や豊島区、板橋区には多くの庚申塔が残っている。
墓所との境の塀に沿って石仏や碑が、、
御本堂
参道には宗祖法然上人八百年遠忌記念に建立された永代供養塔
御本尊様へご挨拶
東日本大震災後に修復に出されたが金ぴかになり戻られるかと案じていたが「古代仕上げ」(古色仕上げ)の落ち着いた感じで本日も有りがたくお詣りさせて頂いた。
ちょっと施餓鬼法要の設えでご覧になりにくいが、、
私は落語の清興のあと午後1時からのお取り次ぎをしておいとま。
玄関を出るとちょうど法要中の御住職が堂外に建てられた卒塔婆の水向けに向かわれる所だった。
帰路の川越街道もまあまあスムースで予定通り帰寺出来た。
蒸し暑い一日だったが単純に気温のみでは十数年間で一番涼しかった?
PS お説教後、退堂して廊下で作相をしていたら本年もお檀家様のご婦人が御本堂から来られ私のブログをご覧になられていると、、
恐縮、、、、
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澤蔵司稲荷境内は「さわやか憩いの広場」として解放され様々な出店・模擬店やヘブンアーティスト、江戸大神楽等で大人から子供さんまで楽しめる憩いの広場に、、、
現在石垣島付近を北上中の台風5号や梅雨前線も気になるところ。
なんとか楽しみにしている方々や準備に携わった方々の為にもお天気になりますように、、
私は明日から練馬や深川方面のお寺のお施餓鬼法要お説教席を頂戴しているのでレポートをお送りできるか、、、
ご参考に昨年のブログ
]]>明治以降は8月15日に慣例として統一されたようだ。
しかし東京だけは7月の15日前後がお盆となり本日が「お盆の入り」
東京やその近郊で7月になった理由は諸説有るがここでは省かせて頂く。
都内の多くの寺院の御住職方は本日から本格的にお檀家様のお宅に出かけお仏壇の
前でお盆のご回向。
私も副住職の運転でお詣り。
先ずは午前8時に出発して日本橋→深川→本所→向島→浅草→鳥越→御徒町→駒込→地元と
午後2時過ぎまで昼食前はお檀家様のお宅へ、、
東京地方は1993年以来の異常気象で7月に入り25度℃を超える夏日も無く曇りや雨模様で日照時間は合計で5時間ほどのようだ。
ニュースでも野菜やお米の生育に影響が出ていると報じられていた。
押上の東京スカイツリー駅付近、、
この時間帯はちょっと雲が多く23度℃ほどだったのでは、、、
午後2時過ぎに一旦帰寺。
遅い昼食後は目白方面へ、、、
目白のお宅では玄関に到着すると既に「迎え火」が、、
このお檀家様の仏間。
毎年13日の我々が到着する午後4時頃には迎え火も済まされ曜日に関係なくご家族・ご親族10名様ほどとご一緒にお詣り。
盆提灯は沢山お飾りしてあるが実際にはこの倍ほど有るとお聞きした。
全部お飾りすると広い仏間だがご家族やご親戚が座る場所が無くなる、、
もう45年ほど先代住職に替わり伺っているがいつも設えは一緒。
その間に先々代、御内室、ご先代様もお浄土へお見送りをさせて頂いた。
年月が流れるのが早い。
この部屋は普段はどのようにお使いかと聞くとお孫さん(副住職の高校時代の後輩)が茶道をたしなみお茶会にも使われているとお聞きした。
様々なお宅にお邪魔をさせて頂いたが体調がお悪かったりおみ足がご不自由になり普段お目にかかれないご年配の方々にもお会いできた。
お盆のお詣りでお邪魔をする有り難さを感じた。
帰寺してから我が家でも「迎え火」
我が家では玄関先でご先祖様が早く戻られるようにと迎え火を焚く素焼きの「焙烙」の
傍にはお馬さんを置く。
送り火の時には牛さんを、、、、
お仏壇前の盆棚の設えや迎え火の習慣は日本各地で様々、、、、
明日も棚経が続く。
逆に上りは中央環状線経由で湾岸や東北道へ都心環状線を利用せず行けるようになった。
その為、自坊に帰るときには都心環状線、谷町JCTへの渋滞は激減した。
予定よりも早く50分ほどで到着。
時間に余裕が有ったので境内のお詣り。
慶元寺参道。
世田谷の古刹なので境内も広大、、
参道横の江戸太郎重長公にもお詣り
江戸氏は慶元寺の開基とされ太田道灌公の時代に活躍。
江戸時代に江戸家から喜多見家に改姓された。
江戸の地名(名称)の原点となったお名前。
開創された頃は天台宗だったが江戸時代に改宗され三代将軍家光公から御朱印地を賜り歴代将軍からも御朱印を賜った古刹。
山門
参道の中間なので昔は「中門」だったか、?
250年ほど前の宝暦5年(1763年)建立と伝わる。
額には山号の「永劫山」と刻まれていた。
広大な墓所の奥には立派な三重塔
境内に10数年ほど前に新築された「薬師堂」
斎場等にも使われる多目的の御堂と以前お聞きした。
境内にはお盆の14日・15日に開催されるみたま祭り盆踊りの櫓も、、
櫓の最上部は太鼓で下はチビちゃん達も浴衣姿で上り踊りがご披露できるようだ。
慶元寺様は幼稚園も併設され幼児教育にもご熱心。
その脇の鐘楼堂
こちらも約250年前に山門と同じく建造された。
慶元寺ご本堂
享保元年(1716年)の建立されたと伝わる世田谷区では最古の木造建築。
ちょうど300年ほど前。
慶元寺さまには飛び地の喜多見不動尊の冬至に厳修される「星祭り」の護摩修行には昭和50年頃から30年以上お招きを頂き太鼓を叩いていた。
およそ28年ほど前に再建された書院。
落慶式の時には御案内頂きお祝いにお邪魔をした書院の玄関、 立派。
御本尊様へお詣り
座像で中品中生の印を示される珍しいお姿。
施餓鬼壇・五如来壇
午後1時半から一時間の時間を頂きお説教(法話)。
ご本堂には詠唱の方々も多く喜多見不動尊の護摩供(星祭り)でお会いしていた懐かしい方々にもお会いできた。
午後3時頃においとましたが帰路も高速道路は渋滞もなく50分ほどで帰寺出来た。
喜多見付近は道路が複雑で毎回、ナビの案内が異なる、、、、
往路は指示をされたナビを無視して世田谷通り経由、帰路はナビの指示通り複雑な裏道経由だったが無事に環八に出ることが出来た、、、
首都高を西神田で降りたが路面はかなり濡れていた。
お檀家様は濡れずにお墓参りを済ませご自宅にお戻りになることが出来たか、、、
]]>六にちなみ毎月六日に澤蔵司稲荷書院で開催されている。
昨日も午前9時から自坊書院で開催された。
所属、元・六番組の頭取中(組頭・副組頭・小頭) が集まる。
江戸時代の町火消しの組織「いろは四十八組、本所深川十六組」は明治時代になり明治5年に「市部消防組」として改編。
その後、近代消防に移行したことに伴い江戸時代の火消しの文化・伝統等を継承する為に江戸消防記念会の前身組織が明治後期に組織された。
現在の「一般社団法人 江戸消防記念会」は 全体で11の区で組織されている。
小石川の地元は現在、江戸消防記念会第四区で二番組だが江戸時代には六番組「な組」として町火消しを担っていた。
その江戸時代の「六番組」はその組織を継承するために現在でも「元六番組」「元六睦」として現在の江戸消防記念会第四区とは所属がダブる組とダブらない組もあるが受け継がれている。
第四区では「な組」(現・二番組)「む組」(現・七番組)「う組」(現・二番組)が所属。
第三区と第九区の一部が近年復活して組頭・副組頭・小頭等30名ほどの頭取中がお集まりになるので書院も手狭、、、
我々は会議での開式・閉式はお十念だが頭取中は開式・閉式は一本締め。
一ヶ月間の報告や御礼、昇進のお祝い等が、、、
昨年は江戸町火消が制定されて三百年の年に当たり様々な記念式典も開催された。
一本締めで閉式後、本日は目黒・祐天寺様の慰霊碑にもご参拝に、、
袢纏の腰の部分の白抜きの本数で何区か識別できる。
第四区は四本、第三区は三本、第九区は九本。
奇数の区は直線で偶数の区は曲線で波打っている。
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天栄寺様では5月30日に例年のお施餓鬼法要が厳修されたが日程的に間に合わず例年通りのお施餓鬼法要が務められ私もお説教席に招かれていた。
その前にお檀家皆様に先代ご住職が御遷化されたことを現御住職からお伝えになられた。
寺院方中心の通夜・密葬儀は6月3・4日で厳修され私もお焼香をさせて頂いた。
本日はお檀家様を中心にご案内で表葬儀(本葬)と合わせ七十七日忌満中陰と納骨が執り行われた。
心配された天候だったが雨も降らず滞りなく執り行われた。
以下、先月30日のお施餓鬼法要のブログ
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本日は文京区本駒込へ
自坊と同じ東京教区豊島組西部 天栄寺様へ(所属の部は異なるが、)
午後1時半からの天栄寺お施餓鬼法要前のお説教の席を頂戴していた。
先日の真夏日に比べると日差しは強かったものの日陰では気持ち良い風も吹いた。
いつもはTAXIなのだがご近所の法類寺院の駐車場に停めさせて頂いた。
天栄寺山門
山門横には文京区史跡文化財「駒込土物店(だな)跡」の石柱も建つ。
教育委員会の説明板
山門を入ると右手に昭和38年11月に先々代住職がこの地にあった「駒込辻のやっちゃば」「駒込の土物店(だな)」の由来(縁起)を刻された石碑を建立。
この地は江戸の元和年間(約400年前)に江戸の神田・千住の野菜市場(やっちゃば)と共に江戸三大市場として栄えた場所。
元和年間は御府内に多くの浄土宗寺院が創設された頃でもある。
昭和12年に「中央卸売市場法」の改正によりこの地から現在の巣鴨に在る青果市場に移転された。
存じ上げているので毎年興味深く拝見している。
駒込土物店(市場)の由来、経緯等が詳しくこの石碑に刻まれている。
市場(やっちゃ場)の起源は天栄寺境内にそびえていた「サイカチ」の大木の下で旧・岩槻街道や中山道から御府内に運び込まれる野菜をお百姓さんや人夫の人々が休憩をする
場所になっていたようだ。
その新鮮な土の付いたままの野菜を求め地元の人々も集まり自然発生的に市場が、、
後に幕府公認の「江戸三大市場」となった。
昭和12年3月25日に「中央卸売市場法」が改正され現在の巣鴨中央卸売市場青果市場に移転。
天栄寺様では毎年春季彼岸明け頃の3月25日には石碑の前に「土物」野菜をお供えして法要が営まれている。
天栄寺境内とご本堂
ご本堂の屋根は六枚の蓮の花びらを模したような独特のデザイン。
雨水はどのように排水しているのか??
御本尊様へお説教前の御挨拶。
脇侍の善導大師様や法然上人のお像も数年前から明るく照明が、、、
午後1時から法要に先立ちお説教席を頂戴しお取次ぎをさせて頂いた。
いつものお説教の席では慈眼院先代住職のお袈裟を被着するのだが本日は天栄寺先々代御住職の33回忌の時に頂いた夏衣の「如法衣」(お袈裟)を毎年被着してお説教をさせて頂いている。
私の寺の先代住職(実父)も平成4年、84歳までこの御本堂でお施餓鬼法要前のお説教をさせて頂いていた。
有り難い仏縁を頂いている。
私のお説教の後、午後2時からは部内寺院住職方も随喜されお施餓鬼法要を厳修。
表白の奉読
本日の法要の趣旨を奉読される。
この表白をお聞きしておいとました。
実は天栄寺先代ご住職が去る23日に御遷化された。
先日、枕経にお邪魔をしたときは掲げられていなかったが本日到着したら本堂前に高札が、
先代御住職が遷化された旨をお伝えする文。
来月3日に通夜、4日に寺院関係での葬儀が、、
お檀家様には7月5日に表葬儀が厳修されると伝えられていた。 南無阿弥陀佛
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朝から大変蒸し暑い一日だった。
まだ帰寺早々でニュースを見ていないが九州・鹿児島をはじめ各地で豪雨に因る被害が発生しているのでは、、
お見舞い申し上げます。
西岸寺 山門 既にお檀家様はお玄関から書院へお入りになられている時間帯
午前11時半からは諸仏にお食事を召し上がって頂く「半斎供養」
その後、ご参列のお檀家様も書院で「お齋 おとき」のお食事
午後1時からは同じく法類寺院住職・浄心寺佐藤上人のお説教(法話)
なだ「お斎 おとき」をお召し上がりのお檀家皆様もお出でで若干の空席も、、
午後2時からお施餓鬼法要厳修。
御住職による「表白」(ひょうびゃく)の奉読
本日のお施餓鬼法要の趣旨を述べる。
お経(阿弥陀経)を読誦をしながら行道の散華作法
お経(阿弥陀経)を読誦をしながらの散華作法は西岸寺様独自の施餓鬼会・十夜法要会の昔からの作法。
これから東京地方は七月のお施餓鬼法要とお盆の季節に、、、、、
PS
法要後に御住職のご挨拶の最後にお孫さんのお披露目
私も若いお二人の結婚の時には媒酌人を務めさせて頂いたので嬉しさもひとしお、、(^o^)
]]>
5月1日に平成 明仁天皇から第百二十六代 徳仁天皇となり令和の御代も丸二か月が経過した。
今朝は若干の雨模様で湿気が多く梅雨らしい天候だった。
やはり微妙なもので湿気が多いと護摩木への松明(ローソク)からの火付も悪く炎の上り方も鈍かった。
逆に副住職が叩く太鼓の音は革が若干伸びており良い音を出していた。
お伝えしているように春秋の大祭、初午祭、節分追儺式等での大護摩はお参りの御信者様も多く内陣の護摩壇のそばまではご遠慮いただいているが月例大護摩の時は近くで護摩の炎にお当たり頂いている。
朝食後にはご近所の御信者宅や会社へのお詣りに、、
出掛けるときは雨も上がっていたので自転車で出かけたが途中で再度雨模様に、、
化繊の紗の道衣だったので事なきを得た、、、
東京では今月はお盆月となり多忙な日々となる。
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常徳寺の先々代住職と私の師父とは若い頃には京都で同年代で様々な場面で一緒に行動を共にしていた。
残念な柄昭和19年に南方で戦死を、、、
昭和20年5月の山手空襲で本堂伽藍は消失。
地元からの信仰の篤かった身丈7尺の身代わり不動尊も消失した。
先代ご住職は昭和46年に本堂再建、その後平成12年には現在の身代わり地蔵尊像と地蔵堂を再建された。
しかし現・ご住職はご本堂、書院等の耐震工事を含め大改修を発願、
本日、その奉告法要が厳修されお檀家様にもお披露目された。
工事中、ご本尊様は書院に仮安置されていたので法要中に遷座開眼の除幕も、、、
御導師による開眼作法
奉告法要の趣旨を述べる表白の奉読
私も法要前の道場を清める四方洒水をさせて頂いたが法要後には浄土門主から工務店社長さんへの感謝状伝達の依頼も受けていた。
目出度く厳修され書院で祝膳を頂戴して様々なご苦労話もお聞きした。
お疲れさまでした。
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二年前に住職を退任された半世紀に亘りお付き合いをいただいている先輩のご先代の37回忌とおばあちゃまの17回忌法要のご案内をいただいていた。
お寺の石柱は私の師父の揮毫。
毎年護摩供にも太鼓をたたきにお邪魔している出世不動堂
午後4時半からご部内ご住職方による年回法要
法要の最後には法類代表として謝辞を申し述べた。
その後墓参を済ませご自坊書院で供養膳をいただき午後9時半過ぎに帰寺できた。
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朝から東京地方は不安定なお天気で2時半ごろに自坊を出発の時には強い雨ながら日光が雲間から射し込んでいた、、、
まさに虹が出現するのではと思われる空模様だった。
写真にも雨粒が写っているが日差しが、、、
若干、早めに到着したのでお詣りを兼ねてご本堂へ。
若い仲間が準備中だった。
予定通り3時から所属南部ご長老が御導師で七回忌法要開始。
その後、墓所をお参りして供養席の東京駅ステーションホテルへ、
ハイヤーや大型バス二台で100人以上の大移動、、
三階建てに改装されドームも高くなった、
供養席には御遺影も、、
先代ご住職には若い頃からお世話になり所属する豊島組では参務(職)もご一緒させていただいた。
中学・高校は同窓だが御歳が離れているので高校時代はご一緒することはなかった。
献杯後にお食事が、、、
ドームのデザインを模した素敵なお皿。
以前、このレストランで食事をしたときに前菜前に置かれているこのお皿が気に入りマネージャーにお願いしても購入することはできなかった。
レストラン自慢のお皿だが気づく方は少ないかも、、、
ご先代を偲ばせて頂きながら美味しい食事をごちそうになり8時半過ぎに散会となった。
ご馳走様でした。
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