例年だとお詣りの方々にお楽しみ頂いたソメイヨシノも葉桜になり「新緑が綺麗な季節になりましたね〜!!」と境内でお声がけをする季節。
しかし昨年暮れ頃から中国武漢を発端に全世界に蔓延をした新型コロナウィールス、、、
日本でも感染が広がり先週、7都府県に緊急事態宣言が発令(発出)された。
幼稚園から大学まで新学期も始まらず入社式も簡便に済まされたりいつもとは全く異なる新緑の季節になってしまった。
ソメイヨシノは葉桜。 奥の普賢象の八重桜は五分咲き。
本日の普賢象の八重桜
このふくよかな普賢象の八重桜の方が櫻らしく私は好み。
雄蘂の姿が普賢菩薩が乗る象さんの牙に似ているから命名されたとも、、、
ブログのアップは9ヶ月ぶり、、、
ブログは2019年8月7日 町田・養運寺様での施餓鬼法要のお説教席のご報告が最後だった。
実はその時にお伝えした通り5月のお施餓鬼法要でのお説教席から戻ると喉に違和感があり体調も若干優れなかった。
7月のお盆明けに近所の耳鼻咽喉科を受診したところ大学病院へ行きなさいと紹介状を渡されてしまった。
果たして診察結果は咽頭癌と食道癌だった。
早い入院を勧められたが8月7日の養運寺では声が出せるうちの最後のお説教席になるのでどうしても務めたかった。
その翌日から検査入院で旧盆中の8月14日に15時間に及ぶ手術。
手術内容は声帯摘出、食道も摘出。
耳鼻咽喉科と食道胃腸外科の2チームのドクターや看護師さん達15名ほどの手を煩わさせてしまった手術だった。
朝の8時過ぎには手術室に私を見送った家族は待合室だが他の待機家族はどんどん手術終了の案内が来て退出したが私の家族は午後11時頃までの長丁場だったとあとで聞いた、、、
施術のドクター、関係の方々、また家族にも本当に心配をかけてしまった。
その後、入院中から放射線療法も、、、
退院できたのは師走に入ってからだった。
その間にも大勢の方々から励ましのお言葉やお心遣いを頂き家族もどんなに心強かった事か、、、
改めて御礼を申し上げます。
境内の藤の花もちょうど京都の浄土宗総本山 知恩院の御忌大法要にあわせて咲く。
声帯を摘出し発声が出来ずもどかしい時も、、、
食道も摘出して胃を持ち上げたり小腸を移植して食道の代用にしているので飲み込んだ時になかなか胃に落ちない時も、、、
与えられた人間の身体は何一つ無駄なところが無いと実感しているところです。
まだまだ元気な頃の生活とペースには戻れておりませんがゆっくりと、、、
ただお電話を頂いても声が出せず電話口に出られませんのでご了承を。
本当にご心配をお掛け致しました。
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以前、高速道路が一時無料化になり3時間45分ほどかかったトラウマでネットの首都高交通情報を綿密にチェックしていたがそれほどの渋滞も無いので午前10時5分頃に車で出発。
お陰様で首都高3号線の下りは渋谷近辺と東名青葉付近で若干の渋滞があったが246号下りはスムースで
午前11寺50分頃には無事到着。
養運寺の御住職は一年お若いが大学時代からのお付き合いと青年会活動を通じて既に半世紀以上のお付き合い。
若い頃は結婚披露宴の司会も仰せつかったりカンボジアの難民救済も一緒に、、、
養運寺は二年がかりで三年前の5月8日に御本堂や観音堂、書院の一部の再建工事が終わり落慶式が厳修された。
本堂裏の駐車場に登れる道も整備されているのだが私はあえて毎回参道下の駐車場へ、、、
写真を撮ったり境内の様子を拝見する為に。
養運寺には既に二十年以上お邪魔をしている。
私の先代も布教をしていたが説教師は自坊(自分の寺)を出る時から説教師であれ。
到着したら境内の様子や堂内の設えに目を配り御住職方のご配慮を受け止めろ。
ご本尊様にお詣りをして堂内の荘厳等にも目を配れ、、
説教が終わったらご寺族のご迷惑にならぬようすぐにおいとまを、、
口癖だった。
その為、泊まりがけの地方でのご依頼以外私服で出かけた事が無い。
事前に御住職に例年の法要とは何か違うか、お伝えしたい事が有るかお聞きすることも有る。
法要の主旨は勿論だが境内整備や御本堂の印象など感じた事をお伝えする場合も、、
ブログでも境内や御本堂の様子をお伝えしているが自分自身の日記、、
来年お邪魔をする時の参考になる。
参道入り口の公道に面した駐車場に、、
掲示板には私の名前もお知らせを下さってあった。
本日も猛暑、、、
参道の階段を登ると山門が、、
養運寺の「山号」は「鶏足山」
奥には三年前に落慶したご本堂が、、、、
観音様もお出迎え。
この階段を上るアプローチが楽しみで本堂裏にも駐車場が完備されているが山門下に駐車して階段を上る。
でもこの石段をいつまで元気に上がる事が出来るかな?と思う年齢になってしまった、、、、
樹木の手入れを拝見するのも楽しみ、、、
再建の御本堂は伝統的な入母屋造の屋根と唐破風の向拝、。
立派!!
本堂脇の観音堂も再建。
以前の観音堂は入母屋の屋根だったが本堂とは逆に方形のお屋根に、、、
住職の拘りか、、、
現・住職がお建てになった鐘楼堂
何年前だったか、、、
私の寺の御信者様がそばにお住まい大晦日には年越しの除夜の鐘を毎年楽しみにしているとお聞きした事がある。
本堂向拝は唐破風、、
黒い部分の紅梁の間の蛙股や唐破風の飾りの彫刻は以前の御本堂の彫刻を再利用。
200年前の本堂を解体した時に保存して再利用。
素晴らしい、、、
虹梁の彫刻も素晴らしい、、
木鼻の獅子も、、
本堂内陣
正面の弥陀三尊様は400年以上前(室町期)に造立され町田市の有形文化財にも指定されている。
住職・副住職の希望で一尺以上の丸柱や内陣の紅梁、欄間は200年以上前の建造でもったいないので再利用を希望したようだ。
多分、設計段階では全部新材の方が楽だったと思慮。
解体作業も慎重に進めなくてはならず大変だったのでは、、、
歴史のある古材は絶対使うべきだ、、、
何百年の歴史(年齢)がある、、、
内陣、天井は格式がある折り上げ格天井に、、、
堂内の斗組・欄間も素晴らしい!以前の御本堂の名残、、、
午後1時からお説教席 お檀家様と共に空調の効いた御本堂で気持ちが良かった、、、
この左脇にもお座敷があり50人ほどのお檀家様で満堂(満室)だった。
ご報告と御礼
本日の養運寺のお施餓鬼法要の法話には私一人でお邪魔をしていたが今回は副住職にも同道を依頼した。
実は5月頃から声が涸れお説教(お取次ぎ法話)の疲れかと思っていたが7月のお盆やお施餓鬼での法話が一段落しても喉の調子が思わしくなく病院へ、、、
果たして「咽頭下部に癌」が、、
急遽、明後日に入院して来週声帯まで摘出の判断が、、、
どうしても養運寺さまでの私の肉声による法話をさせて頂きお檀家様にも御礼とお詫びを申し上げたかった。
幸い本日の入院前の検査は明日に伸ばすことが出来て本日の法話は勤め上げることが出来た。
今後の経過は落ち着きましたらご報告をさせて頂きます。
長いこと有難うございました。
お陰様の一日だった、、、
ご参考に以前の御本堂
このご本堂でも長年お説教をさせて頂いた。
あるいは先代御住職の表葬儀、現・住職の晋山式等々懐かしい思い出の御本堂。
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澤蔵司稲荷境内も「さわやか憩いの広場」として賑わった。
本日は日曜でも有りお詣りの方や来客であまり写真を撮影することが出来なかった。
境内に出るとちょうどお馴染みの「江戸大神楽」の演技
蒸し暑かったので獅子舞の演技も大変だったのでは、、、、
私はお昼過ぎから近隣のお寺でのお施餓鬼法要に出仕(随喜)
アメッシュで雲の動きを見ていなかったが一か八かで自転車で出かけることに、、
無線でTAXIを呼ぶにも境内付近は混雑しているし大通りまで歩くのも大変、、
出発して坂を下りだしたらお若いご夫婦が浴衣姿でほおずきと朝顔の鉢をお持ちだったので思わず着物の袂からカメラを取り出しパチリ、、、
関係寺院の山門
いろいろと雨に備えた支度もして出かけたが有り難いことに帰路も雨には遭わなかった。
九州地方は大変な事になっていると朝のニュースで報じられていたが全くその後の事は、、
台風5号や梅雨前線はどうなっているのか、、、
お見舞い申し上げます。
]]>彼とは浄土宗の僧侶となるべく傳宗傳戒道場も同行。しかも同じ班だった。
既に学生時代からは半世紀に及ぶお付き合い。
隅田川(大川)は私の大好きな清洲橋(吊り橋構造)を渡り深川へ、
しかし今春からオリンピックへ向けて橋の改修やライトアップ工事?で足場がまだ架かっていた。
良信院山門 車だったが駐車場は満車でお隣の雲光院さまの境内に停めさせて頂いた。
14年前に木造の旧本堂から新しい本堂・書院が落慶した。
説教席は古い本堂の頃からなので既に20年近くお邪魔をしている、、、、
あの頃はエアコンも無く暑かった、、、、
私もお檀家様も座布団に座っての説教席で目の前にお檀家様がいらっしゃるので見かねて団扇で扇いで下さった思い出も、、、
六地蔵様もお出迎え。
14年前の本堂・書院等の新築の時に地元の方々が昭和20年3月10日の大空襲で犠牲になられた方々への慰霊のために安置された。
こちらの町内でも多くの方々が犠牲になられたとお聞きしている。
お玄関の傍のお地蔵様。
右の平和地蔵尊はやはり昭和20年3月10日の大空襲で多くの犠牲者がでた為に御先代住職が建立。
左は新築された時に現御住職が建立された水子地蔵尊。
早めに到着したので御本尊様へ御挨拶。
三年前にご縁が有り千葉県から遷座された台座から光背まで2?を超す立派な阿弥陀様。
右側は善導大師、左側は法然上人のお像。
左の位牌壇中央阿弥陀さま
昔は説教所に安置されていたとお聞きした。
お厨子の扉の内側には観音菩薩・勢至菩薩、更に善導大師・法然上人が描かれた珍しいお厨子に入られている。
本堂外陣の施餓鬼壇(五如来壇)
本堂再建の計画段階から施餓鬼壇奥の額も心に描いていたようだ。
私の法話の前に住職から最近の出来事やお檀家様へのご報告も、、
午後1時から私の説教席
あまりアップは好まないので全体をと近くのお寺の住職さんにお願いしたが結構アップが、、
この写真の私が一番小さかったので、、、
住職さん 写真有り難う。
既に本堂はお昼の「お斎 おとき」を召し上がったお檀家様で満堂だった。
本堂内にお入りになれず廊下や書院のモニターテレビでご覧のお檀家様も、、
本年は土曜日だったのでご家族連れも多かったようだ。
良信院は昔は7月22日がお施餓鬼の法要だったが7月20日が「海の日」で休日に制定されたので本堂再建後は本日に変更、、
しかし、その後、祝日法が変更になり必ずしも7月20日が海の日にはならなくなった。
本年は14日の日曜の次の日、お盆中の15日が海の日で連休だった。
海の日に拘る方々は憤慨しているようだが、、、、、
午後2時からお施餓鬼の法要開始。
6年前に友人の住職は僧階が「正僧正」に叙任され仲間では一番早く「緋」の衣を被着出来るようになった。
外陣飾りの施餓鬼壇前で「表白 ひょうびゃく」の奉読。
お施餓鬼法要の趣旨を述べる作法。
私はここまででおいとま。
明日もお施餓鬼の法要が続く、、、、、、
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帰寺すると澤蔵司稲荷境内では43回目を迎えた文京・朝顔ほおずき市が佳境
澤蔵司稲荷境内は「さわやか憩いの広場」として解放。
台風5号は九州方面に豪雨をもたらしているようだが都内は心配された雨も
降らなかった
射的
大道芸・ヘブンアーティストによるパフォーマンスが、、、
明日も開催されるがお施餓鬼会の法要の為に楽しむことが出来ないかも、、、、
境内に出店している町会の町会長さんやスタッフの方から何杯も生ビールの差し入れを頂いてしまった。
ご馳走様でした&お疲れさまでした。
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東京地方は7月に入り雨や曇りばかりで一昨日までの7月の日照時間が5時間未満の新記録を更新と報じられていた。
しかし17日は満月だったが奇跡的に午後から晴れ間が覗き綺麗なお月様を拝むことが出来た。
ただ現在、東シナ海を台風5号が北上中で梅雨前線を刺激して本日は荒れた天気になると昨晩の予報だったが昼前から晴れ上がった。
午前11時過ぎに出発したが気温は30度C未満、、、
毎年猛暑で特に練馬区は東京23区の中でも気温が一番高くなる場所で昨年は36度Cほどになった。
仲台寺は戦後までは田端の近くに有ったが都市計画(区立小学校の拡張工事)等の為に現在の場所に移転した。
東京教区豊島組は文京区、板橋区、豊島区、北区等に70ヶ寺が集中してるが仲台寺は練馬区に移転しても自坊と同じ豊島組に所属している。
我々、東京教区の地域割りでは練馬区は城北組になる。 教区内にも移転に伴い同様なケースが何ヶ寺かある。
自坊の先代住職も移転前の昭和33年から平成4年(85歳)まで35年間ほどお施餓鬼やお彼岸の説教にお邪魔をしていたお寺。
私も先代ご住職から御教導賜ったが現御住職は同い年だが早生まれのため学年は一年先輩だが大学時代から半世紀以上のお付き合い。
ご先代御住職は昨年が三十三回忌だった。年が経つのが本当に早い。
仲台寺山門
山門を入った左手には庚申塔
主尊は如意輪観音さまで左側には「寛文八年」(1668年)と刻まれている。
江戸時代一番、庚申信仰が盛んな頃。
台石には庚申塔独特の「三猿」の彫刻も施されている。
田端からの移転の時に移されこの場所に奉安されたのでは、、
江戸時代、御府内から少し外れた文京区の一部や豊島区、板橋区には多くの庚申塔が残っている。
墓所との境の塀に沿って石仏や碑が、、
御本堂
参道には宗祖法然上人八百年遠忌記念に建立された永代供養塔
御本尊様へご挨拶
東日本大震災後に修復に出されたが金ぴかになり戻られるかと案じていたが「古代仕上げ」(古色仕上げ)の落ち着いた感じで本日も有りがたくお詣りさせて頂いた。
ちょっと施餓鬼法要の設えでご覧になりにくいが、、
私は落語の清興のあと午後1時からのお取り次ぎをしておいとま。
玄関を出るとちょうど法要中の御住職が堂外に建てられた卒塔婆の水向けに向かわれる所だった。
帰路の川越街道もまあまあスムースで予定通り帰寺出来た。
蒸し暑い一日だったが単純に気温のみでは十数年間で一番涼しかった?
PS お説教後、退堂して廊下で作相をしていたら本年もお檀家様のご婦人が御本堂から来られ私のブログをご覧になられていると、、
恐縮、、、、
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澤蔵司稲荷境内は「さわやか憩いの広場」として解放され様々な出店・模擬店やヘブンアーティスト、江戸大神楽等で大人から子供さんまで楽しめる憩いの広場に、、、
現在石垣島付近を北上中の台風5号や梅雨前線も気になるところ。
なんとか楽しみにしている方々や準備に携わった方々の為にもお天気になりますように、、
私は明日から練馬や深川方面のお寺のお施餓鬼法要お説教席を頂戴しているのでレポートをお送りできるか、、、
ご参考に昨年のブログ
]]>明治以降は8月15日に慣例として統一されたようだ。
しかし東京だけは7月の15日前後がお盆となり本日が「お盆の入り」
東京やその近郊で7月になった理由は諸説有るがここでは省かせて頂く。
都内の多くの寺院の御住職方は本日から本格的にお檀家様のお宅に出かけお仏壇の
前でお盆のご回向。
私も副住職の運転でお詣り。
先ずは午前8時に出発して日本橋→深川→本所→向島→浅草→鳥越→御徒町→駒込→地元と
午後2時過ぎまで昼食前はお檀家様のお宅へ、、
東京地方は1993年以来の異常気象で7月に入り25度℃を超える夏日も無く曇りや雨模様で日照時間は合計で5時間ほどのようだ。
ニュースでも野菜やお米の生育に影響が出ていると報じられていた。
押上の東京スカイツリー駅付近、、
この時間帯はちょっと雲が多く23度℃ほどだったのでは、、、
午後2時過ぎに一旦帰寺。
遅い昼食後は目白方面へ、、、
目白のお宅では玄関に到着すると既に「迎え火」が、、
このお檀家様の仏間。
毎年13日の我々が到着する午後4時頃には迎え火も済まされ曜日に関係なくご家族・ご親族10名様ほどとご一緒にお詣り。
盆提灯は沢山お飾りしてあるが実際にはこの倍ほど有るとお聞きした。
全部お飾りすると広い仏間だがご家族やご親戚が座る場所が無くなる、、
もう45年ほど先代住職に替わり伺っているがいつも設えは一緒。
その間に先々代、御内室、ご先代様もお浄土へお見送りをさせて頂いた。
年月が流れるのが早い。
この部屋は普段はどのようにお使いかと聞くとお孫さん(副住職の高校時代の後輩)が茶道をたしなみお茶会にも使われているとお聞きした。
様々なお宅にお邪魔をさせて頂いたが体調がお悪かったりおみ足がご不自由になり普段お目にかかれないご年配の方々にもお会いできた。
お盆のお詣りでお邪魔をする有り難さを感じた。
帰寺してから我が家でも「迎え火」
我が家では玄関先でご先祖様が早く戻られるようにと迎え火を焚く素焼きの「焙烙」の
傍にはお馬さんを置く。
送り火の時には牛さんを、、、、
お仏壇前の盆棚の設えや迎え火の習慣は日本各地で様々、、、、
明日も棚経が続く。
逆に上りは中央環状線経由で湾岸や東北道へ都心環状線を利用せず行けるようになった。
その為、自坊に帰るときには都心環状線、谷町JCTへの渋滞は激減した。
予定よりも早く50分ほどで到着。
時間に余裕が有ったので境内のお詣り。
慶元寺参道。
世田谷の古刹なので境内も広大、、
参道横の江戸太郎重長公にもお詣り
江戸氏は慶元寺の開基とされ太田道灌公の時代に活躍。
江戸時代に江戸家から喜多見家に改姓された。
江戸の地名(名称)の原点となったお名前。
開創された頃は天台宗だったが江戸時代に改宗され三代将軍家光公から御朱印地を賜り歴代将軍からも御朱印を賜った古刹。
山門
参道の中間なので昔は「中門」だったか、?
250年ほど前の宝暦5年(1763年)建立と伝わる。
額には山号の「永劫山」と刻まれていた。
広大な墓所の奥には立派な三重塔
境内に10数年ほど前に新築された「薬師堂」
斎場等にも使われる多目的の御堂と以前お聞きした。
境内にはお盆の14日・15日に開催されるみたま祭り盆踊りの櫓も、、
櫓の最上部は太鼓で下はチビちゃん達も浴衣姿で上り踊りがご披露できるようだ。
慶元寺様は幼稚園も併設され幼児教育にもご熱心。
その脇の鐘楼堂
こちらも約250年前に山門と同じく建造された。
慶元寺ご本堂
享保元年(1716年)の建立されたと伝わる世田谷区では最古の木造建築。
ちょうど300年ほど前。
慶元寺さまには飛び地の喜多見不動尊の冬至に厳修される「星祭り」の護摩修行には昭和50年頃から30年以上お招きを頂き太鼓を叩いていた。
およそ28年ほど前に再建された書院。
落慶式の時には御案内頂きお祝いにお邪魔をした書院の玄関、 立派。
御本尊様へお詣り
座像で中品中生の印を示される珍しいお姿。
施餓鬼壇・五如来壇
午後1時半から一時間の時間を頂きお説教(法話)。
ご本堂には詠唱の方々も多く喜多見不動尊の護摩供(星祭り)でお会いしていた懐かしい方々にもお会いできた。
午後3時頃においとましたが帰路も高速道路は渋滞もなく50分ほどで帰寺出来た。
喜多見付近は道路が複雑で毎回、ナビの案内が異なる、、、、
往路は指示をされたナビを無視して世田谷通り経由、帰路はナビの指示通り複雑な裏道経由だったが無事に環八に出ることが出来た、、、
首都高を西神田で降りたが路面はかなり濡れていた。
お檀家様は濡れずにお墓参りを済ませご自宅にお戻りになることが出来たか、、、
]]>六にちなみ毎月六日に澤蔵司稲荷書院で開催されている。
昨日も午前9時から自坊書院で開催された。
所属、元・六番組の頭取中(組頭・副組頭・小頭) が集まる。
江戸時代の町火消しの組織「いろは四十八組、本所深川十六組」は明治時代になり明治5年に「市部消防組」として改編。
その後、近代消防に移行したことに伴い江戸時代の火消しの文化・伝統等を継承する為に江戸消防記念会の前身組織が明治後期に組織された。
現在の「一般社団法人 江戸消防記念会」は 全体で11の区で組織されている。
小石川の地元は現在、江戸消防記念会第四区で二番組だが江戸時代には六番組「な組」として町火消しを担っていた。
その江戸時代の「六番組」はその組織を継承するために現在でも「元六番組」「元六睦」として現在の江戸消防記念会第四区とは所属がダブる組とダブらない組もあるが受け継がれている。
第四区では「な組」(現・二番組)「む組」(現・七番組)「う組」(現・二番組)が所属。
第三区と第九区の一部が近年復活して組頭・副組頭・小頭等30名ほどの頭取中がお集まりになるので書院も手狭、、、
我々は会議での開式・閉式はお十念だが頭取中は開式・閉式は一本締め。
一ヶ月間の報告や御礼、昇進のお祝い等が、、、
昨年は江戸町火消が制定されて三百年の年に当たり様々な記念式典も開催された。
一本締めで閉式後、本日は目黒・祐天寺様の慰霊碑にもご参拝に、、
袢纏の腰の部分の白抜きの本数で何区か識別できる。
第四区は四本、第三区は三本、第九区は九本。
奇数の区は直線で偶数の区は曲線で波打っている。
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天栄寺様では5月30日に例年のお施餓鬼法要が厳修されたが日程的に間に合わず例年通りのお施餓鬼法要が務められ私もお説教席に招かれていた。
その前にお檀家皆様に先代ご住職が御遷化されたことを現御住職からお伝えになられた。
寺院方中心の通夜・密葬儀は6月3・4日で厳修され私もお焼香をさせて頂いた。
本日はお檀家様を中心にご案内で表葬儀(本葬)と合わせ七十七日忌満中陰と納骨が執り行われた。
心配された天候だったが雨も降らず滞りなく執り行われた。
以下、先月30日のお施餓鬼法要のブログ
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本日は文京区本駒込へ
自坊と同じ東京教区豊島組西部 天栄寺様へ(所属の部は異なるが、)
午後1時半からの天栄寺お施餓鬼法要前のお説教の席を頂戴していた。
先日の真夏日に比べると日差しは強かったものの日陰では気持ち良い風も吹いた。
いつもはTAXIなのだがご近所の法類寺院の駐車場に停めさせて頂いた。
天栄寺山門
山門横には文京区史跡文化財「駒込土物店(だな)跡」の石柱も建つ。
教育委員会の説明板
山門を入ると右手に昭和38年11月に先々代住職がこの地にあった「駒込辻のやっちゃば」「駒込の土物店(だな)」の由来(縁起)を刻された石碑を建立。
この地は江戸の元和年間(約400年前)に江戸の神田・千住の野菜市場(やっちゃば)と共に江戸三大市場として栄えた場所。
元和年間は御府内に多くの浄土宗寺院が創設された頃でもある。
昭和12年に「中央卸売市場法」の改正によりこの地から現在の巣鴨に在る青果市場に移転された。
存じ上げているので毎年興味深く拝見している。
駒込土物店(市場)の由来、経緯等が詳しくこの石碑に刻まれている。
市場(やっちゃ場)の起源は天栄寺境内にそびえていた「サイカチ」の大木の下で旧・岩槻街道や中山道から御府内に運び込まれる野菜をお百姓さんや人夫の人々が休憩をする
場所になっていたようだ。
その新鮮な土の付いたままの野菜を求め地元の人々も集まり自然発生的に市場が、、
後に幕府公認の「江戸三大市場」となった。
昭和12年3月25日に「中央卸売市場法」が改正され現在の巣鴨中央卸売市場青果市場に移転。
天栄寺様では毎年春季彼岸明け頃の3月25日には石碑の前に「土物」野菜をお供えして法要が営まれている。
天栄寺境内とご本堂
ご本堂の屋根は六枚の蓮の花びらを模したような独特のデザイン。
雨水はどのように排水しているのか??
御本尊様へお説教前の御挨拶。
脇侍の善導大師様や法然上人のお像も数年前から明るく照明が、、、
午後1時から法要に先立ちお説教席を頂戴しお取次ぎをさせて頂いた。
いつものお説教の席では慈眼院先代住職のお袈裟を被着するのだが本日は天栄寺先々代御住職の33回忌の時に頂いた夏衣の「如法衣」(お袈裟)を毎年被着してお説教をさせて頂いている。
私の寺の先代住職(実父)も平成4年、84歳までこの御本堂でお施餓鬼法要前のお説教をさせて頂いていた。
有り難い仏縁を頂いている。
私のお説教の後、午後2時からは部内寺院住職方も随喜されお施餓鬼法要を厳修。
表白の奉読
本日の法要の趣旨を奉読される。
この表白をお聞きしておいとました。
実は天栄寺先代ご住職が去る23日に御遷化された。
先日、枕経にお邪魔をしたときは掲げられていなかったが本日到着したら本堂前に高札が、
先代御住職が遷化された旨をお伝えする文。
来月3日に通夜、4日に寺院関係での葬儀が、、
お檀家様には7月5日に表葬儀が厳修されると伝えられていた。 南無阿弥陀佛
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朝から大変蒸し暑い一日だった。
まだ帰寺早々でニュースを見ていないが九州・鹿児島をはじめ各地で豪雨に因る被害が発生しているのでは、、
お見舞い申し上げます。
西岸寺 山門 既にお檀家様はお玄関から書院へお入りになられている時間帯
午前11時半からは諸仏にお食事を召し上がって頂く「半斎供養」
その後、ご参列のお檀家様も書院で「お齋 おとき」のお食事
午後1時からは同じく法類寺院住職・浄心寺佐藤上人のお説教(法話)
なだ「お斎 おとき」をお召し上がりのお檀家皆様もお出でで若干の空席も、、
午後2時からお施餓鬼法要厳修。
御住職による「表白」(ひょうびゃく)の奉読
本日のお施餓鬼法要の趣旨を述べる。
お経(阿弥陀経)を読誦をしながら行道の散華作法
お経(阿弥陀経)を読誦をしながらの散華作法は西岸寺様独自の施餓鬼会・十夜法要会の昔からの作法。
これから東京地方は七月のお施餓鬼法要とお盆の季節に、、、、、
PS
法要後に御住職のご挨拶の最後にお孫さんのお披露目
私も若いお二人の結婚の時には媒酌人を務めさせて頂いたので嬉しさもひとしお、、(^o^)
]]>
5月1日に平成 明仁天皇から第百二十六代 徳仁天皇となり令和の御代も丸二か月が経過した。
今朝は若干の雨模様で湿気が多く梅雨らしい天候だった。
やはり微妙なもので湿気が多いと護摩木への松明(ローソク)からの火付も悪く炎の上り方も鈍かった。
逆に副住職が叩く太鼓の音は革が若干伸びており良い音を出していた。
お伝えしているように春秋の大祭、初午祭、節分追儺式等での大護摩はお参りの御信者様も多く内陣の護摩壇のそばまではご遠慮いただいているが月例大護摩の時は近くで護摩の炎にお当たり頂いている。
朝食後にはご近所の御信者宅や会社へのお詣りに、、
出掛けるときは雨も上がっていたので自転車で出かけたが途中で再度雨模様に、、
化繊の紗の道衣だったので事なきを得た、、、
東京では今月はお盆月となり多忙な日々となる。
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常徳寺の先々代住職と私の師父とは若い頃には京都で同年代で様々な場面で一緒に行動を共にしていた。
残念な柄昭和19年に南方で戦死を、、、
昭和20年5月の山手空襲で本堂伽藍は消失。
地元からの信仰の篤かった身丈7尺の身代わり不動尊も消失した。
先代ご住職は昭和46年に本堂再建、その後平成12年には現在の身代わり地蔵尊像と地蔵堂を再建された。
しかし現・ご住職はご本堂、書院等の耐震工事を含め大改修を発願、
本日、その奉告法要が厳修されお檀家様にもお披露目された。
工事中、ご本尊様は書院に仮安置されていたので法要中に遷座開眼の除幕も、、、
御導師による開眼作法
奉告法要の趣旨を述べる表白の奉読
私も法要前の道場を清める四方洒水をさせて頂いたが法要後には浄土門主から工務店社長さんへの感謝状伝達の依頼も受けていた。
目出度く厳修され書院で祝膳を頂戴して様々なご苦労話もお聞きした。
お疲れさまでした。
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二年前に住職を退任された半世紀に亘りお付き合いをいただいている先輩のご先代の37回忌とおばあちゃまの17回忌法要のご案内をいただいていた。
お寺の石柱は私の師父の揮毫。
毎年護摩供にも太鼓をたたきにお邪魔している出世不動堂
午後4時半からご部内ご住職方による年回法要
法要の最後には法類代表として謝辞を申し述べた。
その後墓参を済ませご自坊書院で供養膳をいただき午後9時半過ぎに帰寺できた。
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朝から東京地方は不安定なお天気で2時半ごろに自坊を出発の時には強い雨ながら日光が雲間から射し込んでいた、、、
まさに虹が出現するのではと思われる空模様だった。
写真にも雨粒が写っているが日差しが、、、
若干、早めに到着したのでお詣りを兼ねてご本堂へ。
若い仲間が準備中だった。
予定通り3時から所属南部ご長老が御導師で七回忌法要開始。
その後、墓所をお参りして供養席の東京駅ステーションホテルへ、
ハイヤーや大型バス二台で100人以上の大移動、、
三階建てに改装されドームも高くなった、
供養席には御遺影も、、
先代ご住職には若い頃からお世話になり所属する豊島組では参務(職)もご一緒させていただいた。
中学・高校は同窓だが御歳が離れているので高校時代はご一緒することはなかった。
献杯後にお食事が、、、
ドームのデザインを模した素敵なお皿。
以前、このレストランで食事をしたときに前菜前に置かれているこのお皿が気に入りマネージャーにお願いしても購入することはできなかった。
レストラン自慢のお皿だが気づく方は少ないかも、、、
ご先代を偲ばせて頂きながら美味しい食事をごちそうになり8時半過ぎに散会となった。
ご馳走様でした。
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お別時後の講演は私も様々なご縁をいただいている江戸消防記念会第四区総代が江戸町火消のお話をされるとのご案内をいただいていたので出かけた。
仕事の都合で遅くなってしまったが午後3時直前に到着、、
ご参加皆様とお別時法要
分団長が御導師
30分ほどのお別時会後のお話は善雄寺のお檀家でもあり私自身もお世話になっている江戸消防記念会第四区高柳総代による「江戸町火消の歴史」について、
家康公からの江戸城築城、諸国諸大名の上屋敷・中屋敷・下屋敷、旗本等の屋敷の形成、町民の建物、街並み等の変遷、大火等の歴史。
それに伴い八代吉宗将軍の享保年間に町奉行大岡越前守の唱導により発足した俗に云われている町火消いろは48組の制定。
そこには伝通院から増上寺に上がられた祐天上人の影響が強くあったと興味深いお話も、、、
最後は明治維新後の組織の改編、戦後の江戸消防記念会発足までの歴史を学ばせていただきあっという間の一時間半だった。
お話後には半纏のご説明
ご本尊様へ向かい木遣りの奉唱
ご参加の皆様も初めての御経験で感動されていた。
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江戸時代には伝通院寺領、澤蔵司稲荷のご神木としても崇められていた。
6年前の平成25年3月に「文京区指定天然記念物 第1号」に指定された。
善光寺坂と呼ばれるようになったのは明治中期以降。
江戸名所図会
石垣に階段の澤蔵司稲荷境内は現在でもその面影を残す。
図絵中央左端には椋の木が描かれ周りにはお茶屋もありお参りの方々の憩いの場のようでムクノキはこの界隈のランドマークのような存在だったと思慮される。
地元・表町町会では天然記念物に指定された翌年からムクノキにちなみ6月9日前後の土曜日か日曜日にムクノキ祭りを開催して本年は6回目だった。
午前9時頃から町会の方は境内に屋台等の準備が始まり午前10時からご本堂で護摩祈願。
護摩供で地域の安全、町内関係者の家内安全、交通安全を祈願。
角田祭礼部長さんの挨拶
表町森田町会長さんの挨拶
私からも、、
椋の木ににまつわるお話をさせていただき椋の木へ
御祈願をしながら御神酒を、
町会役員の方や町会会員の方も御神酒を振る舞った。
その後、境内ではポップコーンや綿菓子のプレゼント。
今年は祭礼部長によるムクノキの紙芝居はあったのか?
本堂の片付けて気が付かなかった、、
町内には新しいマンションも建設され新住民になられた方もこのような活動を通じでこの町が故郷と感じていただける日が来ると確信。
昨日は豪雨で梅雨入りも発表されたので心配をしたが奇跡的に雨も降らず例年通りにムクノキ祭が出来た。
役員の皆様もご苦労様でした。
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六にちなみ毎月六日に澤蔵司稲荷書院で開催されている。
所属、元・六番組の頭取中(組頭・副組頭・小頭) が集まる。
江戸時代の町火消しの組織「いろは四十八組、本所深川十六組」は明治時代になり明治5年に「市部消防組」として改編。
その後、近代消防に移行したことに伴い江戸時代の火消しの文化・伝統等を継承する為に江戸消防記念会の前身組織が明治後期に組織された。
現在の「一般社団法人 江戸消防記念会」は 全体で11の区で組織されている。
小石川の地元は現在、江戸消防記念会第四区で二番組だが江戸時代には六番組「な組」として町火消しを担っていた。
その江戸時代の「六番組」はその組織を継承するために現在でも「元六番組」「元六睦」として現在の江戸消防記念会第四区とは所属がダブる組とダブらない組もあるが受け継がれている。
第四区では「な組」(現・二番組)「む組」(現・七番組)「う組」(現・二番組)が所属。
第三区と第九区の一部が近年復活して組頭・副組頭・小頭等30名ほどの頭取中がお集まりになるので書院も手狭、、、
我々は会議での開式・閉式はお十念だが頭取中は開式・閉式は一本締め。
一ヶ月間の報告や御礼、昇進のお祝い等が、、、
昨年は江戸町火消が制定されて三百年の年に当たり様々な記念式典も開催された。
一本締めで閉式後、本日は・三囲神社の木遣塚にご参拝に、、
袢纏の腰の部分の白抜きの本数で何区か識別できる。
第四区は四本、第三区は三本、第九区は九本。
奇数の区は直線で偶数の区は曲線で波打っている。
役袢纏の白抜き四本は第四区の頭取中
お見送りしたあとの境内。 すっかり新緑の緑が濃くなった。
参道手水舎の向かい側の江戸町火消「な組」の木遣塚。
3年ほど前に境内に建立。
当時は「な組」の真棒のみが中央にあったが一昨年その両脇に観音様とお地蔵様が祀られた。
真棒脇には宗祖法然上人の御名号も。
その為に木遣塚の建立の意味が明確になりお詣り頂く方が増えた。
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説教の茶衣・如法衣と法要出仕の衣・お袈裟を鞄に入れると重いので電気アシストの自転車で出かけた。
快適!!
ご本尊様へご挨拶
外陣には施餓鬼壇(五如来壇)が、、
まずは午後1時から法話
実学生時代から半世紀にわたりお邪魔をしているがお施餓鬼法要前の説教席は初めてだった。
ほとんどがお顔見知りのお檀家様、、
午後2時から詠唱の御奉納が有りその後、お施餓鬼の法要が厳修され私も久しぶりに出仕させて頂いた。
曇り空だったがお檀家皆様がお墓参りをされご自宅にお戻りになる頃までは雨の心配も無かったのでは、、、
本日もお陰様の一日。
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毎月一日(ついたち)は午前6時に月例大護摩を厳修。
お伝えしているように越年、例大祭、初午、節分等の護摩供ではご本堂には御信者様で満堂なので護摩壇の側までお越し頂けないが例月大護摩だけは直接護摩の炎にお近づき頂くことが出来る。
御挨拶後の護摩壇。
新天皇ご夫妻、上皇、上皇后様の玉体安穏 聖化無窮も改めて御祈念申し上げた。
現在、浄土宗第七祖「聖冏上人」が本年600回忌を迎えるにあたり金沢文庫で「浄土宗七祖聖冏と関東浄土教」−常福寺の名宝を中心に」の展覧会が開かれている。
月例大護摩の御参列の方から本日「金沢文庫」での上記展覧会の80ページにわたる御本を頂戴した。
お聞きすると御信者様は某大学教授でこの御本の中でも聖冏(しょうげい)上人と小石川談所の歴史を著述されている方だった。
全くの驚き、、、
5月は多忙だったので6月中旬頃に金沢文庫を訪ねる予定だった、、
皆様をお送りすると書院玄関前の柘榴は例年通り沢山の花🌸が付いていた。
やはり多忙すぎて境内の草花をゆっくり鑑賞していなかった、、、
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自坊と同じ東京教区豊島組西部 天栄寺様へ(所属の部は異なるが、)
午後1時半からの天栄寺お施餓鬼法要前のお説教の席を頂戴していた。
先日の真夏日に比べると日差しは強かったものの日陰では気持ち良い風も吹いた。
いつもはTAXIなのだがご近所の法類寺院の駐車場に停めさせて頂いた。
天栄寺山門
山門横には文京区史跡文化財「駒込土物店(だな)跡」の石柱も建つ。
教育委員会の説明板
山門を入ると右手に昭和38年11月に先々代住職がこの地にあった「駒込辻のやっちゃば」「駒込の土物店(だな)」の由来(縁起)を刻された石碑を建立。
この地は江戸の元和年間(約400年前)に江戸の神田・千住の野菜市場(やっちゃば)と共に江戸三大市場として栄えた場所。
元和年間は御府内に多くの浄土宗寺院が創設された頃でもある。
昭和12年に「中央卸売市場法」の改正によりこの地から現在の巣鴨に在る青果市場に移転された。
存じ上げているので毎年興味深く拝見している。
駒込土物店(市場)の由来、経緯等が詳しくこの石碑に刻まれている。
市場(やっちゃ場)の起源は天栄寺境内にそびえていた「サイカチ」の大木の下で旧・岩槻街道や中山道から御府内に運び込まれる野菜をお百姓さんや人夫の人々が休憩をする
場所になっていたようだ。
その新鮮な土の付いたままの野菜を求め地元の人々も集まり自然発生的に市場が、、
後に幕府公認の「江戸三大市場」となった。
昭和12年3月25日に「中央卸売市場法」が改正され現在の巣鴨中央卸売市場青果市場に移転。
天栄寺様では毎年春季彼岸明け頃の3月25日には石碑の前に「土物」野菜をお供えして法要が営まれている。
天栄寺境内とご本堂
ご本堂の屋根は六枚の蓮の花びらを模したような独特のデザイン。
雨水はどのように排水しているのか??
御本尊様へお説教前の御挨拶。
脇侍の善導大師様や法然上人のお像も数年前から明るく照明が、、、
午後1時から法要に先立ちお説教席を頂戴しお取次ぎをさせて頂いた。
いつものお説教の席では慈眼院先代住職のお袈裟を被着するのだが本日は天栄寺先々代御住職の33回忌の時に頂いた夏衣の「如法衣」(お袈裟)を毎年被着してお説教をさせて頂いている。
私の寺の先代住職(実父)も平成4年、84歳までこの御本堂でお施餓鬼法要前のお説教をさせて頂いていた。
有り難い仏縁を頂いている。
私のお説教の後、午後2時からは部内寺院住職方も随喜されお施餓鬼法要を厳修。
表白の奉読
本日の法要の趣旨を奉読される。
この表白をお聞きしておいとました。
実は天栄寺先代ご住職が去る23日に御遷化された。
先日、枕経にお邪魔をしたときは掲げられていなかったが本日到着したら本堂前に高札が、
先代御住職が遷化された旨をお伝えする文。
来月3日に通夜、4日に寺院関係での葬儀が、、
お檀家様には7月5日に表葬儀が厳修されると伝えられていた。 南無阿弥陀佛
法要前、午後1時からの御説教の席を頂戴していた。
副住職は三年ほど前から西方寺を会所(会場)にお借りして「法話とお念仏の会」を企画。
もう一人の増上寺布教師会の仲間と毎月30分程のお檀家様にも分かりやすい法話と別時念仏会を御住職の薦めで開催している。
西方寺山門
既に多くのお檀家様はお昼の「お齊 おとき」(お食事)を済まされご本堂は向拝の回り廊下まであふれていた。
西方寺のお施餓鬼のお説教には慈眼院先代住職も昭和42年から平成2年(82歳)まで23年間お邪魔をしていた。
私も若い頃(昭和40年初頭)、東京教区豊島組の青年会が自主的に発足したその少し前に西方寺先々々代ご住職のお招きで西方寺を会所(会場)に法式(法要の作法)や大学の先生をお呼びしての勉強会等を開いていた。
まさに豊島組青年会の原点のお寺だ。
先々代御住職も豊島組組長や宗議会議員等をお勤めになりご教導頂いた。
ご本堂の反対側には「一誠観音」さま
下の銘板には、、
先々代住職が戦時中に学徒出陣で昭和19年に海軍兵生教育部で初級将校、昭和20年6月に海軍少尉。兵学校当時に同期のお仲間と「海軍一誠会」を結成。
同期の戦没者六十有八名の追悼の為に昭和50年に永代供養塔として建立された。
お邪魔をするたびにお参りをさせていただいている。
御本堂では三味線の清興
玄関、墓所への参道
いつも植木の手入れも行き届いていて清々しい、、、
お檀家様の前で午後1時から法要前の説教席。
毎年、本当に大勢のお檀家様がお詣りに来られる。
午後2時からはお施餓鬼の法要開始。
ご住職による「表白」(ひょうびゃく)
本日の法要の趣旨を述べられる。
ご本堂も広いのだがお檀家様が大勢で向拝の周り廊下にもいらっしゃるので施餓鬼壇(五如来壇)は向拝側に設えることが出来ずに御本尊様の前に、、
お陰様で無事に一時間のお説教席を務めさせて頂き法要開始後においとま、、、
PS
三年前はこのオーディオルームが説教前の控えの間だった。
応接間兼オーディオルーム
昨年スピーカーの間や奥にある縦横の木製の棒は部屋の音響を整えるものだと、、、
スピーカーは懐かしいTANNOY!! 昭和20年代後半の箱!
火を入れて下さったが懐かしい真空管の明かりが、、、、
本日は少し早めに到着したのでご住職はクラシックとジャズのさわりを聞かせてくださった。
勿論、法要で多くの方がお隣の部屋にもいらっしゃるので小さな音だったがアンプもさることながらTANNOYのスピーカーからは繊細なピアノの高音のタッチや大胆なベースの音も、、、、
お好きな方はすぐお分かりのフルセット、、
御住職のご了解を頂いているのでアップ、、
本日は例年の控えの間
入室して直ぐに気が付いたのだが床の間の引き戸の色合いに、、
お聞きすると最近京都の「唐紙 からかみ」を扱う業者さんに依頼して表装し直したとお聞きした。
波の模様に濃淡の青(水色)が映えていた。
お若いのに素晴らしいセンス!!
私一人の為の控えの間だったので床の間を背にする上座から下座に座布団を置き換え眺めてしまった。
明日もお説教が続くので澤蔵司稲荷ご本堂のご相談はお休みとなる。ご了承ください。
昨日は北海道帯広方面は37度を超える異常なお天気。
今朝も都内は早い時間に26度℃を超え真夏日になるとの予報が出ていた。
本日は正午過ぎから文京区本郷に向かった。
毎年、5月27日は本郷壱岐坂の昌清寺様のお施餓鬼法要の説教席を頂戴している。
距離的にはそんなに遠くは無いのだが小石川台を下り後楽園から本郷台に登るので車で、、、
昌清寺様は自坊の先代住職(私にとっては師僧でもあり実父)も昭和31年から37年間、
85歳までお説教席にはお邪魔をさせて頂いていた。
まさに現・御住職や副住職さんを含め親子三代に亘るご縁、、、、
昌清寺は山門を入ると駐車場の脇に松尾芭蕉翁の「花見塚」の句碑が有る。
この「桜狩り きとくや 日々に五里六里」の句は貞享5年(1688年)に吉野で詠まれた句とされ寛政八年(1796年)に初代の「花見塚」が建立されたと伝わっている。
さすが芭蕉翁は健脚だった、、、
しかし塚は長年の風雪や昭和20年の空襲の被災で壊れてしまっていた。
先代御住職は句碑の記述がある「茗荷図絵」を東京大学の図書館で閲覧して昭和59年に復元、建立された。
その頃に所用でお邪魔をすると用件はすぐに終わったが先代様からよく苦労話を伺った。
先代御住職も苦労された句碑を自慢されていた。 笑顔が忘れられない。
慈眼院・澤蔵司稲荷の境内にも芭蕉翁の句碑が建立され現存しているのでいつも気になり一枚パチリ、、、
芭蕉翁は伊賀のご出身で昌清寺の近くの壱岐坂に戸田権大夫公のお屋敷が有り同郷という事で良くお出かけになられ自坊の境内の句碑「一時雨 礫や降って 小石川」をお詠みになったとも場所とも伝わっている。
時間があったので墓所もお詣り、、
墓所中央の合祀墓「倶会堂」
右わきには歴代墓も、
昨年は先代ご住職の23回忌も厳修された。
墓所入り口のお地蔵様
4年前に「昌清寺 開創400年」と浄土宗宗祖法然上人の「800年大遠忌」を記念して建てられた書院新玄関
お説教は午後1時からだがお檀家様は正午前にはお集まりになり「お齊 おとき おしのぎ」のお食事中なので境内は静か、、
ご本堂で御本尊様に御挨拶
徳川家康公の念持佛とも伝わる身丈三尺の素敵な阿弥陀様。
外陣飾りの餓鬼壇。「五如来壇」とも呼ばれている。
「三界萬霊」のお位牌と共に「戦争 戦災 地震」等で亡くなられた諸々霊位のお位牌も、、
一番右側は400年続くお檀家様の「過去帳」
元和元年の開創以来の過去帳。
副住職にお聞きするとこれは複写(書き写し)した過去帳で現存する本物の過去帳は大切に金庫に保管されているとの事。
昭和20年5月の山手大空襲でもご本尊様と共に墓所中央の合祀墓に先代ご住職が納め被災を免れた。
昨年の先代23回忌法要の時に話題になった善導大師さまと法然様の額。
ご本堂内と裏堂との境(長押の上)の出入り口頭上に掲げられている。
昭和50年代に先代住職が日本橋高島屋の地下での骨董市に出かけ法然様のお姿が描かれたこの額を見つけられた。
ご先代様は必ず対でもう一つあるはずだから探してほしいとお願いしたがその時は見つからず。
後日、連絡があり高島屋に出かけると善導様のこの額が、、
高祖善導様と宗祖法然様の二祖様が揃われたとお喜びになられたことは当然。
この二つの額を近づけると「二祖対面」のお姿。
素晴らしい仏縁で昌清寺さまに奉安されることに、、
このお話もお檀家様にご紹介することが出来た。
午後1時から法要までの約50分間ほどお説教の席でお話をさせて頂いた。
準備していたお話よりもアドリブが多くなりすぎたか、、、
満堂のお檀家様も熱心にお聞きくださり感激。
昌清寺は武蔵野台地の東端の本郷台、後楽園のドーム球場を挟み西側の自坊の高台は小石川台。
昔は後楽園方面に高い建物も無く自坊境内からは昌清寺様方面はまる見えだった、、
お陰様の一日。
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霊性院様はお檀家様がお気軽にお参りにお越しくだされるようにとお施餓鬼法要は5月下旬の日曜日に厳修される。
今まで何回もご依頼を頂いたのだが5月下旬は毎年日にちの決まっているお寺と重なってしまい本日が二回目。
お十夜法要は10月中旬頃の日曜日だがこちらは若干日程的に余裕があるので5回ほどお邪魔をしている。
だだ本所横川までは春日通りで一直線なのだが湯島天神様では本祭りの真っ最中。
本社神輿の渡御に遭遇すると渋滞するので余裕を持って正午前に車で出発した。
特に本日はアメリカ合衆国トランプ大統領も来日中で午前中は首相と千葉県でゴルフだったようだが夕方から国技館の大相撲をご覧になるとの事で検問のための渋滞も考え早めに出発した。
霊性院正面 右の唐破風のお屋根は地蔵堂
昨日よりも暑くなり二日続きの真夏日になると朝から報道されていたが車の外気温計は34度Cのままだった。
若干の遠回りをしても早めに到着できた。
霊性院様の一本東側のブロックの通りからは北にスカイツリーがよく見えるので時間が有ったので撮影に。
以前、御住職からこの通りは隠れたスポットなので道路を改修すると伺っていた。
案の定、邪魔だった電信柱や電線も昨年撤去され歩道も綺麗に、、、
歩道脇には「タワービュー通り」の案内板も、
5年前のお十夜法要でお邪魔をした時の同じ場所からのスカイツリー
電線が本当に邪魔をしていた。
スカイツリーから南下して交差する春日通り、蔵前通りまで整備されたようだ。
スカイツリーから錦糸町駅へは絶好の抜け道かも知れない。
山門を入ると右手に「子育厄除開運地蔵尊」がお出迎え。
江戸・正徳年間(約300年前)に境内の井戸から出現されたとの縁起も残る。
大正12年の関東大震災前までは14・24日のご縁日には門前に60以上の屋台も出て大変賑やかだったようだ。
その後、石像のお地蔵様は大戦の大空襲でも大きな損傷も無く今に伝わり地域の安全を見守られている。
お邪魔をするたびにお詣りをさせて頂いている。
私は午後1時から約一時間の説教席。
その後、2時から部内・関係ご寺院住職方の随喜でお施餓鬼法要開始。
霊性院は書院・玄関や庫裏は25年ほど前に鉄筋コンクリート造で完成したがご本堂は以前のままの木造。
広いお玄関のスペースにもお檀家様はお座りになる事が出来る。
出仕寺院御住職方の両脇の間にも大勢のお檀家様がお座りになられている。
逆に私のお説教中には法要にご随喜・出仕のご寺院方の到着も確認出来る。
私のお役目が終わったのでご寺族にご迷惑にならぬよう早めにおいとま。
帰路は国技館からかなり離れた春日通りでも検問の準備中で多くの警察車両が停まっていた。
湯島天神様のお祭りの神輿渡御も避けたいので帰路も遠回りの言問通りで戻った。
大正解!!
また明日からも関係寺院でお施餓鬼法要の法話を依頼されているので澤蔵司稲荷 ご本堂でのご相談は今月いっぱいお休みとなる。
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あの風薫る皐月五月は何処へ?
今日は自坊の本坊である傳通院のお施餓鬼法要が厳修された。
既に夏衣の絽の道衣を被着して出かけたが紗を着てもおかしくない気温だった。
現在境内の鐘楼堂は木造に再建途中
法要中の堂内は空調も効いており昔に比べ格段に快適になった。
帰寺して知ったが3時過ぎに関東地方に地震があったようだが全く気がつかなかった。
明日からも今月は30日まで関係寺院でお施餓鬼の説教(法話)席を頂戴しているのでご相談事はお休みになりますのでご了承を、、
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依頼されている説教席(法話)は午後2時なのだが遅刻は出来ないので正午頃に自坊を車で出発。
以前は東京メトロと中央線でお邪魔をしていたのだが御住職から駐車場のご用意が有るとの事で4年前からは車でお邪魔をしている。
私は説教席のみで法要には随喜せずおいとまするので駐車場は出やすいようにとのご配慮も、、
昼時でもあり一般道も高速道路もスムースで40分足らずで到着してしまった。
自坊を出掛けるときに既に外気温は28度℃を超え30度℃を超える真夏日になるとの予報も出ていた。
光専寺
山門
晴天で太陽もじりじりと照りつけお参りの方も汗だく、、
御本堂
ご本堂は昭和初期の建造で数年前に耐震工事を済ませた。
書院玄関も立派
写真からも暑さが感じていただけるのでは、、、、
時間が有ったのでお玄関に御邪魔をする前に境内を拝観参拝、、
墓地に向かう参道の地蔵尊
本日は24日でお地蔵様のご縁日でもあり私もしっかりお参りをさせていただいた。
先代御住職の御発願で建立された水子地蔵尊もお詣り。
光専寺歴代御住職のお墓も、
若い頃に御教導賜り私の寺の先代住職(実父)も30年近くお説教にお呼びくださった御先代住職の23回忌の角塔婆も、、
一昨年厳修された。
私も若いころからご教導賜った。
御本堂内陣 御本尊様へご挨拶。
お説教には一時間ほど前だったが堂内には「お斎 おとき」(お食事)を済まされたお檀家様も既にお座りになられていた。
左脇陣には「箪笥 たんす 地蔵尊」
以前、御住職からお聞きしたが御厨子のお地蔵様を手前の箪笥のような箱に収めまさに和箪笥のように鍵手が着いており駕籠(かご)のように担いで「出開帳」をしていたとの事。
私の師僧(実父)も記録によると平成元年(82歳)まで光専寺様のお施餓鬼会やお十夜法要のお説教席に御邪魔をしていたと有るので師僧の愛用していた「如意」や「お袈裟」(遺具)を着けさせて頂きお説教をさせて頂いた。
現御住職とは大学時代からのお付き合いで御内室とも結婚前から存じ上げている。
有り難い「ご縁」
お陰様で帰路もスムースで午後3時過ぎに出発したが4時頃には帰寺出来た。
今日も有り難い一日。感謝
明日からも猛暑が続くようなので熱中症にはご留意いただきたい。
30日まで連日関係寺院でお施餓鬼法要が続くので稲荷ご本堂でのご相談事はお休みになっておりますのでご了承を、、
一昨日の暴風雨とは打って変わり昨日・本日は暑いくらいの良いお天気。
住職は同じ中学・高校の先輩だが浄土宗の僧侶になる最後の行である傳宗傳戒道場は同行。
先代御住職さまにも若い頃から御教導賜った。
実は先輩でも有り傳宗傳戒道場も同行の御住職は昨年10月に高校の同期会の打ち合わせ会の帰路に御自坊山門のすぐ近くまで戻られたが虚血性心不全で急逝された。
大学時代はアメフトの選手としても活躍され持病もお聞きしたことが無かったので訃報が飛び込んできたときはまさに青天の霹靂だった。
その時期は秋のお十夜法要が続き御自坊の十夜法要を予定していた日に表葬が執り行われた。
本日は新住職(新命住職)が初めて導師を務めるお施餓鬼法要の説教席のご案内を頂いていた。
深光寺墓所には江戸時代、「南総里見八犬伝」で有名な戯作者「滝沢馬琴翁」の墓が有る。
境内入り口の文京区教育員会の案内板。
小石川七福神の「えびす様」もお出迎え、、
文京区では史跡巡り・文学散歩のコースが設けられているが東京メトロ丸ノ内線「茗荷谷駅」から後楽園、「本郷三丁目駅」にかけていくつもある。
慈眼院・澤蔵司稲荷境内にも史跡巡り、文学散歩、小石川七福神巡りの大勢の方々が訪れるがこちら深光寺さまがスタート地点か最終地点になる。
馬琴翁と奥様であるお百さんのお墓。
馬琴公は「蓑笠」(みのがさ)の別号が有るようにお墓にも「蓑笠」がのっている。
毎年のようにご紹介しているがお墓竿石の下の台石には家を形取った 馬琴翁の「蔵書印」が刻まれている。
いつも思うが江戸時代のデザイナーのセンスに驚く。
境内には滝澤家の歴代墓も、、
墓石の上にお地蔵様がのる珍しいお墓。
今となっては御先代住職になってしまうがこのお墓も馬琴翁の発願で自らデザインしたとのこと。
自筆のお墓の図面が残っているようだ。
よくご覧になるとわかるが墓(四角の胴体部分)の左後角が欠けているが建立の時に石工が境内に運び上げたときに誤って落とし欠けてしまったとの事。
それを見ていた馬琴公は「いいよ、、」と仰り角が欠けたまま建立されたようだ。
その時の経緯は古文書にも残っているとお聞きした。
馬琴翁はお心がお広かったようだ。
寛政元年(1789年)に深光寺第八世上人が建立した「厄除観音塔」
まずは御本尊様へ御挨拶
昭和20年5月25日の山手大空襲では被災を免れた鎌倉期の素敵な阿弥陀様。
昨晩、新命住職の継承式を私のお説教のあと施餓鬼法要の間に執行した方が良いと急遽決まり本尊阿弥陀様の御前には遺影とお位牌を、、、
午後1時からお説教の席を頂いた。その席でも法要前に継承の儀の作法を若干ご説明をさせて頂いた。
継承式
所属御部内長老上人から浄土宗御門主から頂戴した「住職認証」書の伝達
引き続き歴代御住職がお使いだった水冠・払子の伝達も滞りなく。
その後、午後2時からご部内寺院御住職方と共に法要が、、、
本尊前から転座をして施餓鬼壇の前で新命住職による「表白」の奉読
本日のお施餓鬼法要の趣旨を奉読される。 初めての表白奉読で緊張されたか、、、
継承式では出しゃばってお説教後、衣・如法衣のまま司式(司会)までさせて頂いた。
御遷化された先輩御住職にお喜び頂けたか、、、
明日は吉祥寺の仲間のお寺のお施餓鬼法要。
]]>本日は深川・長専院さまへ
一昨年のお施餓鬼法要は大学時代から公私ともにお付き合いがあった先輩である住職が副住職さんへ住職を継承すると表明した法要でもあった。
2年前、秋のお十夜法要の時に現御住職が新住職(新命)として継承した。
先輩である前住職とは傳宗傳戒道場も同行。
もう45年程、法要等の行事にはお邪魔をしている。
本日は午前10時過ぎに車で自坊を出発。
東京地方は昨日強風と豪雨だったが本日は晴天で夏日になる予報も朝から報道されていた。
深川へは文京区からは大川(隅田川)を渡らなくてはならず清洲橋通り経由で、、
隅田川にかかる橋では一番好きな清洲橋を渡る。
残念ながら東京五輪に向けて昨年から塗装やライトアップ?の工事中でまだ足場が組まれていた。
お隣の霊巖寺境内に車を停めさせて頂き長専院へ
私の先代がご依頼を受け揮毫し字刻された石柱
境内の不動堂
近年は正月だけになってしまったが護摩の修行も同行で以前は正五九の護摩供には太鼓を叩きにお邪魔していた。
長専院本堂
長専院は関東大震災と昭和20年3月10日の空襲で消失し先々代住職は二回ご本堂を再建した。
先輩が住職時代の10年ほど前に瓦葺きの本堂を耐震も考慮して屋根は銅板葺きに。
空襲の時、先々代住職は町内の役員をされており清澄庭園へ町内の方々を避難誘導している最中に本堂が焼け御本尊様も消失してしまった。
本所・深川は関東大震災と空襲で灰燼ときし多くの犠牲者がでた。
先々代御住職が御遷化後に先々代御内室のご希望も叶い10数年前に鎌倉期造立の立像の阿弥陀様をお迎えできた。
その阿弥陀様は平成21年に江東区の指定有形文化財(彫刻)に指定された。
教育員会が境内に設置した説明板。
掲示板には写真も、、
早速ご本尊様にご挨拶
本当に素敵な阿弥陀様。
先々代御住職がお迎えした終戦後のご本尊様は脇の位牌壇へ
午後1時半からお施餓鬼法要
施餓鬼法要の趣旨を述べる「表白 ひょうびゃく」の奉読。
素晴らしいお天気に恵まれ多くのお檀家様がご参列だった。
帰寺すると今朝、日光から搬入された日光杉の鳥居二基も職方により建ち上がっていた。
霊履(お穴さま)から奥の観音堂に通じる階段手前の鳥居と階段途中のが鳥居が新しく、、、
奥の院に向かって奥行きが感じられる。
以前にもあったのだが不朽して取り払われていた。
まだ奥の院に向かい建立のスペースがあるので御奉納は受付中。
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東京地方はここの所夏日になったり突然雨が降ったりと不安定なお天気が続いていた。
昨日は最高気温が25度Cを超える「夏日」だった。
本日も夏日に近づく気温だったのでは、、
本来、我々僧侶は原則、夏衣への衣替えは6月1日から。
しかしあの東日本大震災での電力不足からクールビズも定着してお役所や企業でもノーネクタイや半袖でも。
我々も近年は前倒しで5月の法要も「夏衣」が多くなり助かっている。
衣と如法衣は絽ではなく一気に「紗」へ、、、
本日は浅草では「三社祭」一宮・二宮・三宮の本社御輿の町内渡御、、、、
早朝に「宮出し」、、、
本所までは自坊から春日通りで一直線。
しかし本社神輿の渡御に遭遇し交通渋滞の心配もあるので早めに正午前に出発。
本日お邪魔をした本所・華厳寺の住職とは中学・高校も港区の男子校で同期、大学も同期、浄土宗の僧侶の資格を頂く修行・傳宗傳戒道場も同行でしかも同じ班だった。
卒業しても友人として12歳で中学入学から既に60年の公私に亘るお付き合い。
一昨年は「古稀」を迎えた。
午後1時からのお施餓鬼法要前の説教席(法話)を依頼されていたが道路は何事も無く空いており早めに到着。
華厳寺山門
六地蔵様がお出迎え、、
本所は深川同様、関東大震災・昭和20年の大空襲では火災により多くの犠牲者が、、
その慰霊の為のお地蔵様も祀られている。
山門右手にはお閻魔様の御堂が有るがその前には立派な枝垂れ桜。
実はその前に植わっているモミジは若い頃にお世話になった華厳寺先代住職の13回忌の時に私の寺の境内から移植をした。
六地蔵様の横(右の白いお花の手前、「えんま堂」の掲示のうしろ)のモミジ。
前にもお伝えしているが慈眼院・澤蔵司稲荷にはモミジの古木が数本有り毎年紅葉と共に落ちたモミジの種から沢山の実生が育つ。
30数年ほど前は初夏に芽を吹く実生(双葉から本葉が二枚出た状態のチビちゃん)を一本ずつ植木鉢に移植して育てていた。数は数百本か、、、、
現在(今頃)も境内には無数の双葉が、、、
ちょうど31年前に境内に芽生えたモミジの実生を植え替えている時に一本の電話が、、、、
華厳寺御先代の御遷化の訃報だった。
しかし、なかなか育たないモミジもその年は8本ほどが元気に育った。
12年後の13回忌の時に現住職(友人)に「一本あげるよ」と持ちかけたら「是非!」と言うことで車で届けた。
彼も丹精を込め育ててくれてこんなに大きくなった。
今年34歳になる。
澤蔵司稲荷境内のモミジ数本とは兄弟。
当時、運んだ時は乗用車に乗る親指ほどの幹の太さだった、、、
墓所入り口のお施餓鬼や十夜法要の時に楽しみにしている住職自作の案内ポスター
玄関先の掲示
本年は言葉では無く「令和元年」、、、、 達筆だな、、、、、
まだワープロも無かった時代に彼は「ガリ版」の原稿を切るのが得意で青年会時代は良くお願いした。
当時、寺内に幼稚園も有ったので和文タイプライターも導入したのでお世話になった、、、
早めに到着しお檀家様がお齊(お弁当)を召し上がっている時間なので御本尊様にもご挨拶。
落語の高座の前に本堂で写真を撮らせて頂き施餓鬼壇(五如来壇)も、、
12時半からは本堂で私の法話前に清興の落語。
高座は第6代目 柳亭左龍師匠。
師匠は下町にお住まいで控えの間では一年ぶりの再会で控えの間で夏衣や三社祭、出囃子の話題で盛り上がってしまった。
控えの間に戻る前に書院の住職の「趣味の間」を撮影
秋の十夜法要やこの時期のお施餓鬼法要に御邪魔する時は楽しみにしている。
壁の掛け軸の戯画は私の寺の玄関に掲げてあった軸。
私の母の通夜・葬儀にお手伝いに来てくれた時に気に入り彼がどうしても欲しいと言うことで華厳寺の本堂・庫裏の修復落慶法要の時にお祝いで差し上げた。
以前は古い雅楽の笙や龍笛、壺や茶器もあったが昨年模様替え、、
昭和のビデオデッキやフィルムの8ミリカメラも、、、
下段のSony F1のデッキは私も子供のお遊戯会や背負子で担ぎスキー場で大活躍した。
現在もベータのビデオの再生には使用している。
最近は鉄瓶に凝っているのか??
落語の高座のあと、午後1時から50分間ほどの説教席を頂戴してお檀家様の前でお話をさせて頂いた。
お施餓鬼の法話は勿論だが60年に亘る友人のが住職なので悪口ばかり、、、
素晴らしい彼の性格や人柄は当然お伝えしたが、、、、
私の役目はここまででお施餓鬼法要には毎年の事だが出仕(随喜)せず、、
たまにお十夜で太鼓を叩いた事も有ったが、、、
午後2時からはお施餓鬼法要が始まりご本堂での施餓鬼壇の前で法要の趣旨を述べる「表白 ひょうびゃく」の奉読をカメラに納めた。
帰路は昨年三社祭りのお神輿に春日通りで遭遇してしまい迂回を余儀なくされたが本年はストレートで戻ることが出来た。
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自坊と兼務寺のお施餓鬼法要は先月末に厳修。 まだ平成だった。
お施餓鬼の法要は教義的には期日(日にち)規定がないので特に戦後はお盆の頃から気候の好い五月に厳修するお寺が増えた。
特に東京地方は5月の法要が圧倒的に多くなった。
本日は令和と改元され初めてのお施餓鬼法要。
午後1時からのお説教の席を頂戴していた。もう15年以上前から、、、
御先代同士は同年代で親交を頂き現住職とは学生時代から半世紀のお付き合い。
特に青年会活動はいつも一緒だった。
現在は副住職同士も同世代で共に活動をしている。
現在、副住職さんは東京教区の青年会の会長をなさりお忙しい日々。
東日本大震災以降、節電も含めクールビズも定着。
我々も本来は6月1日からが夏衣への衣替えだが前倒しで5月から夏衣(絽や紗)が多くなった。
ただ今朝も東京地方は最低気温が一桁の7度Cほどで肌寒かったが晴天で正午前に出かける頃は暑く感じる気温になっていた。
本日が私にとっては今年初のお施餓鬼法要でのお説教席。
専修院山門入り口脇の無縁塔。毎年の事だが藤棚の花も終わっていた。
実は一昨年の4月末に自坊の境内整備のおり見つかった「板碑」
板碑は戦国時代の鎌倉期から南北朝、室町時代に武士の間で板碑(石塔婆)の奉納が鎌倉街道沿いに盛んに行われたと伝わる。
見つかった自坊の一枚は南北朝 北朝暦應四年(1341年)と鑑定された。
感激したのは浄土宗第七祖聖冏(繊月)上人がお生まれになった年に造立奉納されたと判明。
本日の専修院さまのお檀家さまの何人様かは小石川傳通院を会所(会場)に800年御忌記念の地元 豊島組主催の五重相伝会や授戒会にもご参加下さっているのは存じ上げていた。
傳通院の前身である壽経寺は聖冏(繊月)上人の開山。
その為、五重相伝を確立された第七祖聖冏(繊月)上人のお話しも交えようと考えていた。
正午過ぎに到着すると本堂では落語の清興中だったので参道付近の歴代墓と共に昨年偶然遭遇した専修院さまの板碑にもご挨拶。
阿閦如来を主尊に下段は文殊・普賢菩薩の梵字が読み取れる。
20年ほど前に地元、豊島区の教育委員会が調査をされこの板碑は乾元二年(1303年)鎌倉期の建立との事。
豊島区の文化財にも指定されている。
自坊の板碑もそうだが字の如く厚さは7?程の薄い石塔婆。
考古学的には「板碑」と呼ぶジャンルとお聞きしたことが、、
時間も迫ったのでご本堂へお詣り。
例年通り清興は柳家小袁治師匠の落語の高座。
御住職はじめ内室、副住職さんもお玄関でお迎えくださった。
実は現・御住職は本日のお施餓鬼法要で御退任。
御先代ご住職も古稀をお迎えになられたあと現・ご住職に継承された。
私より二歳年下だが数年前から本日の事はお考えになられていた。
三十八年間お勤めになられ平成10年には立派な現在のご本堂や書院を再建された。
まだ宗門はじめ行政にも様々な手続きが有るので正式なお披露目は11月になる。
お玄関に飾られた身の丈20センチほどの指人形、、
御住職にそっくり(^o^)
私はお説教席のみなので法要の開始直後を撮影させて頂きおいとま。
11月のお十夜の法要で住職晋山(継承式)を挙行して新住職(新命)がお導師を務められるので本日が最後のお導師となる。
山門を出たら教育委員会の掲示板が、、
お読みになりにくいので改めて、、、
専修院
専修院は、元和3年(1617)に(一説に慶長2年=1597)開山である得蓮社業誉上人迎阿弁教和尚が江戸の浅草新寺町(現台東区松が谷1丁目)に創立した浄土宗の寺院であり、正式には正業山専修院迎接寺という。本尊は阿弥陀如来である。
その後、東京府による市区改正事業のため、明治41年(1908)に浅草区北松山町61番地から北豊島郡染井888番地(現在地)に移転し、現在に至っている。この土地は、江戸時代に多数の植木屋が集住していた上駒込村を代表する伊藤伊兵衛の屋敷跡と考えられ、平成9年4月から6月にかけて実施された埋蔵文化財発掘調査では、おもに植木屋が繁盛した江戸時代後半の遺構が発見された。建物の礎石や地下室のほか、溝や生垣を何度も作りなおした跡などがあり、広い敷地の中を区切って利用していた様子がうかがえる。さらに縄文土器も出土しており、周辺に縄文時代の遺構が広がっていることも確認された。
境内には、伊兵衛に関係するとみられる寛永18年(1641)造立の宝篋印塔をはじめ、乾元2年(1303)造立の板碑、富士講先達の元祖である藤原角行や浄瑠璃の富本節家元である富本豊前掾代々の墓など、多くの貴重な文化財が残されている。
東京都豊島区教育委員会
参列のお檀家さまも法要後にはお墓参りを済ませ「板碑」をお詣りしてお帰りなられたのでは、、
出かける前は連休開けで多忙だったのでお昼の食事抜きだった。
早速、頂いてきたお弁当を、、
お檀家様も召し上がるお昼のお弁当(お齋 おとき)、
掛け紙には豊島組教化分団編纂の「食前のことば」が、
「みほとけと 天地の恩恵(めぐみ)ありがたく 南無阿弥陀佛 いただきます」
有りがたく頂戴した。
お陰様の一日、、
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六にちなみ毎月六日に澤蔵司稲荷書院で開催されている。
所属、元・六番組の頭取中(組頭・副組頭・小頭) が集まる。
江戸時代の町火消しの組織「いろは四十八組、本所深川十六組」は明治時代になり明治5年に「市部消防組」として改編。
その後、近代消防に移行したことに伴い江戸時代の火消しの文化・伝統等を継承する為に江戸消防記念会の前身組織が明治後期に組織された。
現在の「一般社団法人 江戸消防記念会」は 全体で11の区で組織されている。
小石川の地元は現在、江戸消防記念会第四区で二番組だが江戸時代には六番組「な組」として町火消しを担っていた。
その江戸時代の「六番組」はその組織を継承するために現在でも「元六番組」「元六睦」として現在の江戸消防記念会第四区とは所属がダブる組とダブらない組もあるが受け継がれている。
第四区では「な組」(現・二番組)「む組」(現・七番組)「う組」(現・二番組)が所属。
第三区と第九区の一部が近年復活して組頭・副組頭・小頭等30名ほどの頭取中がお集まりになるので書院も手狭、、、
我々は会議での開式・閉式はお十念だが頭取中は開式・閉式は一本締め。
一ヶ月間の報告や御礼、昇進のお祝い等が、、、
昨年は江戸町火消が制定されて三百年の年に当たり様々な記念式典も開催された。
一本締めで閉式後、本日は目黒・祐天寺様の慰霊碑にもご参拝に、、
袢纏の腰の部分の白抜きの本数で何区か識別できる。
第四区は四本、第三区は三本、第九区は九本。
奇数の区は直線で偶数の区は曲線で波打っている。
役袢纏の白抜き四本は第四区の頭取中
お見送りしたあとの境内。 すっかり新緑の緑が濃くなった。
参道手水舎の向かい側の江戸町火消「な組」の木遣塚。
3年ほど前に境内に建立。
当時は「な組」の真棒のみが中央にあったが一昨年その両脇に観音様とお地蔵様が祀られた。
真棒脇には宗祖法然上人の御名号も。
その為に木遣塚の建立の意味が明確になりお詣り頂く方が増えた。
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本日の令和の最初の法務は毎月一日(ついたち)の例月大護摩供厳修。
午前6時に開始。
お伝えしているように越年、例大祭、初午、節分等の護摩供ではご本堂には御信者様で満堂なので護摩壇の側までお越し頂けないが例月大護摩だけは直接護摩の炎にお近づき頂くことが出来る。
祈祷文の中で初めて「令和元年五月一日」とお読み上げした。
新天皇ご夫妻、上皇、上皇后様の玉体安穏 聖化無窮も御祈念申し上げた。
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総会に先立ち午後3時より役職者の総会前の打ち合わせで傳通院へ。
役職者委員会後、午後4時からご住職方、寺庭会会長等も集合してご本堂で組長上人の御導師のもとお別事の法要。
この一年間に御遷化された御住職の御回向も、、、
その後午後6時過ぎから会館で懇親会。
ご馳走を頂いたが自坊では江戸消防記念会第四区木遣親聲会の梯子乗りと木遣り稽古の千秋楽。
午後8時に帰寺するとちょうど本梯子が立ち頭取中に稽古の成果をご披露するところだった。
稽古納めの手締め、、
その後、ご本堂で千秋楽の木遣りの奉唱。
お陰様で怪我も無く終了したとお聞きした。
豊島組総会後の懇親会も中座せずギリギリ間に合った。
これからのご活躍を祈念。
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稽古用の低い梯子は足場パイプに固定される。
足場パイプに固定された低い稽古梯子での稽古
今年は普賢象の八重桜も満開
三間半の本梯子も新春出初め式以来で締め直しも終わり待機中。
長鍵(飛び口)で12人で垂直を保ち支える。
午後7時半過ぎからは本梯子で頭取中が見守る中、稽古始めの披露
今晩は総代が多忙で間に合わず長老が激励の挨拶と稽古始めの手締め
お披露目後、梯子は境内裏の倉庫にしまわれ頭取中も本堂へ
その後、澤蔵司稲荷本堂で木遣りの奉唱
初日と千秋楽は本堂での木遣り
木遣不動尊
27日が千秋楽
危険な梯子乗りなので安全を祈念
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ここの所の初夏のような陽気で境内の新緑も進んだ。
ソメイヨシノはすっかり葉桜になってしまったがモミジの新緑が眩しい。
石垣修復工事後に植栽された普賢象の八重桜は今が満開。
境内では一番遅咲きの桜。
垂れの八重桜は本年は花の付きが少なかった、、、、
普賢象とは花の雄蘂が普賢菩薩がお乗りになっている象さんの牙に似ているからとの説も、、、
ふくよかな花を咲かせ毎年4月下旬まで楽しませて貰っている。
参道手水舎越しに、
本堂脇の藤の花も暖かさにつられほぼ満開に、、、
好天に恵まれご参拝の方々も境内の新緑や普賢象、藤の花を楽しまれている。
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昨日、今日と快晴で暖かく本堂脇の藤の花も満開に近づいた。
開花時期はほぼ例年通りだった。
満開が待ちきれずご報告。 ほぼ八分咲きか、、、
自坊の藤の木は藤棚では無く立木仕立て。
先代からも昭和20年の山手の大空襲でも被災しなかったと聞いている。
樹齢何年か、、、
立木仕立てなので蔓(つる)が伸びると選定をするので私の子供の頃からほとんど姿が変わっていない。
よく藤の名所では寒中に酒粕を施肥すると聞くが自坊では前年夏頃に御奉納された御神酒を寒中に一升瓶二本ほどお許しを頂き根元にまいている。
今晩は平成最後の満月。
しかし天気予報では曇り空の模様。
なんとか藤の花と共に拝みたいのだが、、、、
明日は天気が良さそうなので楽しみ。
ミツバチをはじめ大型の蜂も沢山蜜を吸いに訪れている。
夢中で吸っているので心配は無いがたまにスズメバチもどこから飛んでのでお気をつけて!
なんでこんなにほのかな花の香に虫たちは気がつくのでしょう、、、
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七日の澤蔵司稲荷春季例大祭も満開のソメイヨシノが咲き誇る中で厳修出来た。
しかしその後は寒くなり昨日は一日中氷雨で最高気温は5度にも達せず東京の西部では降雪もあった。
先月21日に開花宣言が出された都内だがここの所の寒さで境内のソメイヨシノも少しずつ葉桜にはなりかけているがまだ見頃が続いている。
こんなに長期間ソメイヨシノの花が楽しめるのは新記録では、、、、
モミジも新緑を迎えた。
境内南東脇の垂れ八重桜も花をつけだした。
正面階段脇の垂れ桜もこれから、、
普賢象の八重桜は今月中旬から下旬にかけて毎年楽しませてくれる。
寒暖の差が激しいので皆様も体調には呉々もお気をつけて頂きたい。
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本年は3月中旬が暖かくお彼岸の頃に咲きだしたソメイヨシノ。
3月下旬には散ってしまい例大祭の本日には葉桜になっていると思っていた。
現在が一番艶やかにふくよかに開花している。
昨晩もライトアップをしたが遅くまで観桜する方々が絶えなかった。
手前の新緑はモミジ。
春季例大祭の本日のみ本堂奥の御神殿の御厨子から澤蔵司稲荷様の御尊像をお出まし頂いてご開帳。
護摩供
多くの御信者様にもご参拝頂いた。
一年の家内安全・心願成就を祈念。
境内はソメイヨシノが落花しても垂れの八重桜や普賢像の八重桜で今月いっぱいお楽しみいただける。
一応、ソメイヨシノのライトアップは今晩で終了予定。
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本日は昔からお付き合いのある御上人が日中唱導師をお勤めになられ随喜をさせて頂いた。
芝・大門からのお練り行列
三門をくぐり境内へ、、
よいお天気に恵まれたが冬の装束では暑いくらいだった。
副住職も式師として出仕だった。
毎日出かけているが明日は自坊 澤蔵司稲荷の春季例大祭なのでこれから準備。
御忌法要は明日が最終日。
二日ほど前、午前中は風も無く晴天だったのでおもちゃのドローンを境内に持ち出し空中撮影、、、
この一枚だけ本堂と手水舎の屋根と満開に近いソメイヨシノと共に撮影が出来た、、
明日はご案内はがきの通り午の刻(正午)から大護摩を厳修予定。
まだソメイヨシノも綺麗で垂れの八重桜も咲き出しておりますのでご参拝ください。
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夜のお花見で寒い思いをされた方も多かったのでは。
確か3月21日に東京地方は靖国神社の標本木が開花して気象庁からの開花宣言も発表された。
お伝えしているように毎年の事だが境内の桜の開花はその発表より3日ほど遅れる。
ここのところの花冷えでまだ満開にはなっていないが早くに咲き出した桜の花は本日の風で花吹雪になっていた。
今朝、浄土宗大本山増上寺の御忌大会(ぎょきだいえ)に副住職が向かう前に春季例大祭に向けて幟旗を立てた。
まだ桜の上部、枝の先端の蕾は開いていないが花吹雪、、、
今年は「満開!」の宣言が出来そうも無い、、、
お詣りの御信者様は長く桜が楽しめて嬉しいとお喜びになられていた。
これからは垂れの八重桜や普賢像の八重桜も花開く。
今晩もライトアップは行う予定。
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先日、御信者様には4月7日(日曜日)の春季例大祭のご案内はがきを投函させて頂いた。
当日は例年通り一年に一回の澤蔵司稲荷尊像のご開帳。
午の刻(正午)から大護摩の厳修予定。
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月例大護摩だけは護摩中に内陣までお入り頂いている。
無事厳修
朝食を済ませご近所の御信者様の会社やご自宅を訪問して稲荷社のご祈願。
その後、副住職の次男(私にとっては孫)の宮参りを澤蔵司稲荷ご本堂でお勤めをして慈眼院阿弥陀如来様やご先祖様にもご報告。
祝い膳の予約をしてあったお店に到着と同時に官房長官から新元号が「令和」と発表された事を知った。
昨晩も境内の桜のライトアップをしていたが激しい雨音に気づき慌てて副住職と照明器具を撤収、、、
本日は朝方は寒かったが快晴に恵まれソメイヨシノも八分咲きになった。
以前にもお伝えしたが境内のソメイヨシノは靖国神社の標本木の開花より3日以上遅れる。
その後も花冷えの日も続き満開はこれから、、
この分だと7日(日曜日)の澤蔵司稲荷の春季例大祭の頃に花吹雪になるのでは、、、
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境内の桜が綺麗な頃に空撮をしようと企てた、、、、
まるでおもちゃだが空撮用のカメラも付いていた。(中央下部)
格安!
取説を読むとカメラの解像度はいまいち、、、、
早速、ソメイヨシノが三分咲きになった数日前に試みてみた。
この日は風が強くホバリング(空中停止)が難しくピンボケ、、、
その後の一枚
高く上がりすぎてカメラの向きがよくわからなかったが取り敢えずご本堂とソメイヨシノの上部が撮影できた。
今晩、娘婿が来たのでライトアップされた夜桜の撮影を試みたが光量が足りず無理だった、、、
再度、天気がよい風のない日に再挑戦予定(^o^)
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毎年の事だが澤蔵司稲荷のソメイヨシノは標本木より3日ほど遅い。
春季彼岸のお中日にやっと数輪が開花した程度。
本日も昼間は結構気温も上がったがまだ二分咲き程度。
特に昭和20年の山手大空襲で被災しなかった樹齢100年を超える古木は開花が遅い。
本日午後には毎年ライトアップを楽しみにしている方から開始時期のお問い合わせも、、、
三分咲きの桜も、、
五分咲きになったらライトアップを開始しようと思っていたが今晩から試しに始めた。
やはりふくよかな感じでは無いけれど、、、
明日の晩もライトアップ予定。
週末は雨模様との予報も出ているので心配だが、、、
お待たせ致しました。
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数日前の天気予報では東京地方には雨マークも、、、
しかし予報に反して風は強かったが快晴。
昨年のお中日は雪も交じり寒く一昨年もお天気が悪かった。
東京の日の出は5時44分、日の入りは午後5時49分。
暦を見ると本日は○望・旧暦の2月15日で満月とも重なった。
旧ねはん会とも重なっていた。 これも珍しい事。
傳通院の午後3時からの彼岸法要会には副住職が出仕。
お昼のニュースでは東京地方の開花宣言を出す靖国神社の標本木のソメイヨシノも5輪以上開花して気象庁から開花宣言が発表されたと報じられていた。
自坊境内のソメイヨシノはまだ開花せず、、
例年の事だが開花宣言から3日ほどあとに開花する。
このソメイヨシノは樹齢100年を越すと思われるので遅咲きか、、
五分咲きになったら例年通りライトアップ予定。
毎年申し上げているが静かに桜を愛でて頂きたいので境内での飲食(宴会)はご遠慮頂いているのでご了承を。
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副住職から聞くと昨日から傳通院を会所(会場)にお互いに布教の実践をしながらの研修会。
本日午前には傳通院山門に上がりお別時念仏も行われたとの事。
お昼前に終了して日頃稲荷にお蕎麦の奉納が続く稲荷蕎麦萬盛さんでお蕎麦を手繰ってからの訪問だった。
浄土宗の修行では護摩を焚くことが無いので是非経験したいとのリクエストがあったようだ。
特に浄土宗慈眼院が別当寺を務める澤蔵司稲荷に興味があったようだ。
法衣から平服に着替えお蕎麦を手繰ってから、、
ほとんどのメンバーが間近に護摩供を体験するのは初めてで驚いていた。
浄土宗の布教に活かせられることは何も無いとは思うが、、、、
しかし日頃、布教の研鑽を継続的になさっていることは素晴らしい。
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昨日は東京地方も春一番が吹いたと今朝の報道で伝えていた。
本日は暖かいお天気だったが花粉がかなり飛散しているようだった。
小石川 傳通院のお檀家さまでも有るので正午前に出かけた。
副住職もマスク姿、、
前 総代様からは御先代様から澤蔵司稲荷の戦後の復興・再建には多大なるお力添えを頂いた。
本日は東京下町の昭和20年3月10日の大空襲。
多くの犠牲者や家屋の焼失があった。
明日は東日本大震災から丸八年。
忘れてはいけない出来事に祈りの日が続く。
]]>六にちなみ毎月六日に澤蔵司稲荷書院で開催されている。
本日は暦の上では二十四節季の「啓蟄」
だいぶ早足で春が近づいてきた。
所属の頭取中(組頭・副組頭・小頭) が集まる。
江戸時代の町火消しの組織「いろは四十八組、本所深川十六組」は明治時代になり明治5年に「市部消防組」として改編。
その後、近代消防に移行したことに伴い江戸時代の火消しの文化・伝統等を継承する為に江戸消防記念会の前身組織が明治後期に組織された。
現在の「一般社団法人 江戸消防記念会」は 全体で11の区で組織されている。
市部消防組の纏のミニチュアに関するブログ
http://blog.takuzousuinari.com/?day=20170816
小石川の地元は現在、第四区で二番組だが江戸時代には六番組「な組」として町火消しを担っていた。
その江戸時代の「六番組」はその組織を継承するために現在でも「元六番組」「元六睦」として現在の江戸消防記念会第四区とは所属がダブる組とダブらない組もあるが受け継がれている。
第四区では「な組」(現・二番組)「む組」(現・七番組)「う組」(現・二番組)が所属。
近年、九区・三区の一部も復活して組頭・副組頭・小頭等30名ほどの頭取中がお集まりになるので書院も手狭、、、
定式(会議)の前には「お手頭を拝借」で一本締め
我々は会議での開式・閉式はお十念だが、、、
一ヶ月間の報告や今後の予定、慶弔の報告・御礼等も行われる。
閉式後、目黒・祐天寺へ、
袢纏の腰の部分の白抜きの本数で何区か識別できる。
第四区は四本、第九区は九本。
奇数の区は直線で偶数の区は曲線で波打っている。
役袢纏と呼ばれているが組頭・副組頭は肩からの赤(朱色)の線は二本、小頭は一本で火事場での指揮系統は一目瞭然だった。
役袢纏の白抜き九本は第九区の頭取中
毎月、自坊書院での定式(月例会)のあとご縁の有る神社仏閣にご参拝。
これも伝統の継承と先達への遺徳慰霊の為。
江戸消防記念会では昨年江戸町火消創設三百年の記念式典が盛大に開催された。
ブログ http://blog.takuzousuinari.com/?day=20181126
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都内は長時間にわたり道路の通行規制が行われるのでお気をつけてお越し頂きたい。
以下、昨年のブログのペースト
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毎年2月の最終日曜日は東京マラソンが開催される。
昨年からコースが大幅に変更になり本年は深川を通過するコースに、、、
普通のマラソンはあっという間に通過してしまうが本年も38000人の一般走者のエントリーも有り沿道を全ての参加者が通過するのには長時間になりそれに伴い交通規制も。
自坊から一番近い飯田橋交差点の外堀通り市ヶ谷寄りが都庁前をスタートして5キロ地点。
午前9時に招待選手を含む本チャン・ランナーは15分程で飯田橋付近を通過するがそれから2時間ほど一般ランナーが通過。
その後、日本橋や浅草を通過して深川・門前仲町が折り返し地点でゴールは東京駅前。
都心部の主要道路は長時間に亘り車の通行止めが続く。
第一回大会の時にはうっかりご法事をお受けしたがお檀家様も大遅刻で下町からの供養席のお弁当もなかなか届かずご迷惑をおかけしたのでそれ以後は東京マラソンの日にはご法事はご遠慮頂くようになった。
その為に時間が出来たので毎年のように近くの飯田橋で応援。
今年は友人・知人の参加は無かったのでテレビ観戦だった。
しかし交通規制に関係の無い城北や埼玉方面からの御信者さまのお詣りがあり全部観戦は出来なかった。
以前の佃大橋の長くきつい上り坂が無くなり平坦なコースになったので好記録が、、
早すぎて上位のゴールシーンは見ることが出来なかった。
5年前の「東京マラソン2013」のブログをペースト
本年で第7回を迎えた「東京マラソン2013」
午前9時10分に都庁前をスタート。 10キロマラソンを含む36000人がエントリー!!
東京マラソンの日は交通事情(数時間に亘り交通規制)を考え午前中のご法事等はお受けしていない。
その為に私も毎年、飯田橋付近で応援!
実は「世界ふしぎ発見」のミステリーハンターの白石みきさんは今年も参加なので応援を兼ねて飯田橋まで出かけた。
9時半前に到着すると(飯田橋はちょうど5キロ地点)本チャンのランナーが通過中だった。
暫くすると大集団が、、、
白石みきさんとは昨年も会おうとしたがみきさんは皇居方面への右カーブの内側を走り会えなかった。
私はいつも外側で応援。こちら側は新宿方面から来るランナーと皇居方面と両方を見る事が出来る。
今年はリベンジで白石みきさんかもら昨晩ツイッターで本日のランニングウエアーの写真と飯田橋での待ち合わせ?場所の再確認が有った。
飯田橋の右ターンは外側で彼女が見慣れている作務衣で待っていると連絡。
彼女から届いた再確認のツイッターでの地図
午前9時50分頃、そろそろかなと思っていたら彼女も外側をわざわざ走り私を見つけてくれた!!
ランニングウエアーのカラーがわかっていたので私も大集団の中で見つける事が出来た!!!
まったくコースをはずれこちらへ!
「ハイ!ポーズ!!!」で「ガンバ!!!」
彼女は昨年9月迄TOKYO FM 「JOGLIS RAN GIRLS」の月曜日のパーソナリティーも勤めていた。
「世界ふしぎ発見」のミステリーハンターでは現在も活躍中!
「賢者の選択」でも頑張っている!
http://kenja.jp/innovation/
飯田橋交差点から皇居方面
ちょうどこの手前側で応援していたので凄い遠回りをさせてしまった、、
昨年のブログを見たらこの大外回りの路上では観戦できなかった!一番見やすい場所!
来年はこの場所は混むかも、、、
昨年のブログ http://blog.takuzousuinari.com/?day=20120226
「世界ふしぎ発見」の澤蔵司稲荷でのロケ(取材)のブログ
http://blog.takuzousuinari.com/?day=20120111
「世界ふしぎ発見」放映のブログ
http://blog.takuzousuinari.com/?day=20120122
昨年の記録を上回ったかな??
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今朝は昨夜来の雨が少し残っていたが御信者様はお足元が悪い中お詣りにお出でくださった。
向拝でも御奉納を受けつけている護摩木でお炊き上げも兼ね厳修。
春秋の例大祭や初午祭等での護摩供の時は御信者様も多く内陣護摩壇の近くまでお入り頂けないが例月大護摩ではお詣りを頂ける。
ご挨拶後の護摩の釜
初午祭(本年は式 豆まきの関係で二の午に厳修)では副住職(副別当)が護摩供手法のために佛器はまだピカピカに輝いていた。
普段は本尊壇のみだが修行の時は六壇焚くので護摩壇の釜の直下には水を入れたすり鉢を置いた。
現在は釜が直接護摩壇に触れないように厚さ1?程の耐熱のシートを施してある。
直接だと真鍮プレートの下の木製護摩壇が高熱で炭化してしまう。
その後、午前中はご近所の御信者様の会社やご自宅へお詣りに、
早いもので越年新年、初詣に始まり様々な新春行事が続きはや三月、、、
近隣では河津桜も咲き出している。
PS 明後日3月3日は「東京マラソン」
都内中心部はかなり長時間の交通規制が実施されますのでお詣りには道路規制の状況をご確認のうえお越し頂きますようお願いいたします。
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書院は3年前に新築された。
書院
まず、午後7時から御本堂で「お別時」の法要。
今晩は所用等で住職方全員が揃わなかった。
善光寺内陣。
明治になり信州の善光寺別院にもなり御分身の一光三尊像はお厨子の中でお施餓鬼法要、お十夜法要の時のみご開帳される。
普段はお前立ちの一光三尊像。
本堂内陣の襖
三つ葉葵のご紋は徳川ご本家のご紋とは異なる、、、
お別事後に書院で恒例の部会。
礫川部では「無量講」とも称している。
毎月のように教区内の様々な団体の行事や組内の行事もあるのでお互いに確認し合い、近隣寺院の出来事等も報告され最後は若干の時間雑談で情報交換の場になる。
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二十四節季の「雨水」でもあった。
本日は○望で満月。
昨晩も雨だったが今晩も東京地方は雨模様でビッグムーンの満月と報じられているが拝めそうには無い。
境内の福寿草は元旦草・朔日草とも呼ばれ本年もちょうど旧元旦の2月上旬から花が咲き出していた。
昨日の旧小正月にご報告をしようと思ったが昼間も小雨で花は萎んでいた。
福寿草は雨や曇り、夜間には花びらが閉じてしまう。
本日は日が差して可憐に咲いていた。
本日の様子
「葉を見ずの花」とも呼ばれ
可憐に咲いているが花が終わる頃には葉が茂って夏を越す。
季節は違うが曼珠沙華と同じような経過を辿る。
今月は28日しか無いので新年・新春の行事がやっと終わった思ったらもうすぐ3月、、
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お伝えしてあった通り暦の上での本年の初午は2月2日。
しかし3日が節分追儺式豆まきの為の舞台が本堂正面に設置されるので本年に限り本日の「二の午」に「初午祭」を厳修した。
午の刻(正午)から初午祭を厳修。
6年前に副住職は私の護摩のお師匠様である平泉 中尊寺御貫首のご配慮を頂き仲間と3人で二十一ヶ座の護摩修行の伝授を頂いた。
浄土宗には護摩の修行道場はない。
成満後、初午祭だけは副住職が護摩を焚く。本年で7回目。
祭文の奉読。
私は脇座。
いつもの法類御住職だけではなく護摩修行での同行の副住職の友人も。
増上寺雅楽会のメンバーもわざわざ群馬から出仕してくれた。
入・退堂は雅楽の笙・篳篥・龍笛の三管で、、
護摩は正式には六段護摩、 二時間以上時間がかかる。
秘密三段護摩でも一時間半ほど。
副住職は本尊段だけで修行したがそれでも40分ほどかかった。
お陰様で師走から新年の越年護摩、様々な新年の行事・法要、先日の追儺式豆まきの行事も滞りなく厳修する事が出来た。
都内でも最低気温が氷点下になり禊ぎ観音さまの手桶の水も凍る時もある。
皆様方もお体には充分ご留意頂きたい。
お陰様の一日。
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昨年の初午祭のブログ http://blog.takuzousuinari.com/?day=20180207
またお陰様で境内の整備や霊窟(お穴さま)の整備も整って参りました。
初めてお詣りの方は都心部にこんな霊窟が有ったとはと驚き有り難いご報告も頂いております。
朽ちて取り壊した霊窟の社殿や鳥居も徐々に整備されました。
以前の面影を取り戻すために霊履 鳥居の御寄進のお申し込みも継続中です。
奥の院の観音堂まで鳥居を建立したいと考えております。
設置ご希望の場所はお詣りの節にご説明をしたいと考えております。
江戸時代からの面影・環境を残すためにご協力を頂けますならば幸甚です。
追伸
既にお申し込みを頂いている鳥居もございますが日光杉の原木を現在乾燥作業中とのことで設置は5月下旬頃になるとのことです。
申し訳ございませんがもう暫くお待ちいただきたく存じます。
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本日は19度Cを越える暖かさで外で身体を動かすと汗ばむほどの陽気、、
職方は豆まき舞台や危険防止の為の柵の撤去等に追われた。
暦の上では本日は「立春」
明日は●「朔」で旧正月節、「元旦」
台湾等、中華系の国々では今晩が大晦日で賑わうのでは、、、、
境内の片付けをしていたら暦通り「福寿草」が咲き出していた。
福寿草は「元旦草」「朔日草」とも呼ばれ旧暦の元旦である今頃に芽吹き黄色い可憐な花を咲かせる。
「葉見ずの花」とも呼ば最初は花だけで満開後に徐々に葉が伸びてくる。
境内の他の場所でも咲き始めていると思うので植え込みの落ち葉をどかしてあげなければ、、、
ただ自己主張もあまりせず可憐に咲くので見逃すことも多くご参拝の折にはお気をつけて、、、
昨日のブログでもお伝えしたが「初午」は2月2日で節分前日の為に本堂正面に豆まき舞台を設置しなければならず「二ノ午」の2月14日が澤蔵司稲荷での「初午祭」厳修となるのでご予定に入れて頂ければ幸甚です。
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澤蔵司稲荷では子供豆まきも併修しているのでどうしても土曜や日曜日に前倒しをして追儺式豆まきを執行している。
本年は本日が日曜日なので暦通り厳修。
穏やかなお天気のもと豆まき行事をおこなうことが出来た。
午後3時から大護摩を厳修して3時半頃からの豆まきになるのだが既に2時半頃には境内に沢山の方が、、
既に地元の富坂警察署、小石川消防署と小石川消防団の警備の方々も見守って下さっていた。
境内入り口には小石川消防団のチビちゃん達に人気のミニ消防車も、、
3時からの護摩供厳修に望むチビちゃん達の準備も整い書院でスタンバイ。
手製の裃姿に。
午後3時から追儺式の法要開始。
法要開始を喚鐘で合図。
護摩のあと参加のチビちゃんに元気で良い子になりますようにと灌頂洒水。
いよいよ豆まき開始。
総代のあとちびチビちゃんも元気よく、、
チビちゃん達は豆まきが続く中、本堂で集合写真。
最後に我々僧侶も豆まきをして無事にお開きに、、、
お陰様で境内のお子さん達も警備の方々に守られ無事に終了することが出来た。
ご参加の方々、境内にお集まりの方々、警備に携わって下さった方々のこれからの一年の心願成就、家内安全を祈念。
ありがとうございました。
追伸
暦の上では昨日の2日が「初午」ですがご案内の通り本日の節分豆まきの舞台が本堂前に設営されますので2月14日の「二ノ午」が澤蔵司稲荷での「初午祭」になります。
初午祭の護摩供のみは既に護摩修行を成満している副住職が大護摩を焚きます。
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於大の方菩提所として、江戸時代は関東十八檀林であった傳通院を参拝したあと訪ねられた。
塔頭寺院、鎮守の稲荷として白羽の矢が立ったとお聞きしていた。
先ずは別当寺として祈願をする護摩供を短くご披露。
副住職も大学で浄土宗の法儀実習(お経や様々な作法を習得する)を担当しており学生さん達とは顔見知り。
傳宗傳戒も終わり今春卒業の学生さん達。
浄土宗では般若心経は普段あまり読誦しないが全員が大きな声で太鼓に合わせ発声して下さったので感激。
確かに行中の食作法(じきさほう)では般若心経をお唱えする。
堂内に大きな声で般若心経が響き渡るのは初めての経験だった。
護摩後には塔頭寺院、別当寺、数年前に境内から見つかった670年ほど前の「板碑」、奉納が続く萬盛蕎麦屋さんの話も、、、
参加者の中には青年会時代から活動を共にして教区内の組長も一緒に勤めた友人のご子息や世田谷のお不動様の冬至の不動護摩(星祭り)に35年ほど太鼓を叩きに伺っていた御住職のお孫さんにもご挨拶を頂いた。
林田先生のご配慮にも感謝。
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毎年お不動様の御縁日の1月28日には48年ほど前に浄土宗の僧侶の資格(傳宗傳戒道場成満)をいただいてから護摩供の太鼓を叩きにお邪魔していた。
御先代住職が御遷化されてからは私も護摩修行が済んでいたので護摩供も焚かせて頂いていた。
しかし自坊副住職と同学年の西岸寺副住職、その友人と共に三人で護摩の修行を成満して6年前から西岸寺副住職が護摩供を厳修するようになった。
私は卒業。
道路側から見た西岸寺「不動堂」
平成8年の書院再建前は境内に独立した木造の不動堂が有った。
現在は書院と一体化された建物(お堂)になった。
西岸寺御本堂
不動堂内陣、
大きな唐金のお不動様。
縁起では寛文11(1671)年の建立と伝わる。昔は願をかけた時には5〜7日と日を限ってお詣りをしたようだ。
以前の本尊不動明王像は石仏だったが昭和20年の空襲で被災し不動堂再建のおりに大きな唐金のお不動像を建立してその胎内に石仏のお不動様を納めた。
午後2時から御本堂で御回願後に不動堂で護摩供。
正式に六壇護摩を厳修すると2時間以上かかる。
澤蔵司稲荷でもそうだが「本尊壇」のみの護摩供。
本来、天台宗護摩では三角に護摩木を積むが昨年から井桁に、、
自坊の副住職は「承仕 じょうじ」(護摩のお手伝い役)として行者(西岸寺副住職)のサポート役。
私は太鼓を叩かせて頂いた。
護摩の後半では「お札様」の御加持。
無事、厳修。
護摩作法は基本的には同じだがお不動様の祀られるお寺ではそのお寺の伝統にもより微妙に異なる。
来年の為に「差定」,,式次第をアップしておく。
私の為に、、、、
まだ自坊では2月3日の節分追儺式(豆まき)や2月14日の初午祭と新年の行事が続く。
本年は暦の上は2月2日が初午ですが翌日の節分豆まきの舞台が本堂 向拝前に設置されますので二ノ午の「2月14日」が初午祭になります。
ご案内状は郵送してありますがお間違えになりませんように、、、、
大寒も過ぎましたが東京地方も寒い日が続いています。
インフルエンザも流行しているようですので御自愛下さい。
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山門をくぐりすぐ左手に地蔵堂が有るのでお詣りの方は参道。
毎年の事だが防寒の為にテントが張られ暖房機も、、、、
本日は晴天だったが北風が冷たかった。
地蔵堂の身代り地蔵尊
お地蔵様の背後には御先代住職の発願で壇信徒様から御寄進された千体地蔵尊。
天井にも先代住職の拘りが、、
千体地蔵尊は予定の約半分が奉安されたようだ。
私も先祖供養のために御寄進(奉安)させて頂いた。
まだお申し込みは可能。
本年は新たに5体のお申し込みが有り法要中に開眼され奉安された。
常徳寺には江戸期に恵心僧都作と伝わる身丈7尺ほどの立派な「身代り地蔵尊」が祀られ多くのお詣りの方々が有ったとお聞きしている。
江戸名所図絵には常徳寺より地蔵堂の方が大きく描かれている。
残念ながら昭和20年5月25日の空襲で消失した。
御先代住職が発願され平成14年に参道左手に現在の地蔵堂が落慶して新しく造立されたお地蔵様が奉安された。
お地蔵様の周りには白檀の大きなお数珠が一周の設え、法要でのお焼香の後は一周する事が出来る。
法要前には講堂で清興の落語が、、
桂 米太朗師匠の落語
皆さん和やかに楽しまれていたが残念ながら米多朗師匠の高座も法要準備時間の関係でお聞きする事が出来なかった。
定刻の午後2時に地蔵堂に向かう前に本堂向拝で入堂する作法。
地蔵堂 御祈願開始
後住職の法要の趣旨を唱える「表白 ひょうびゃく」の奉読。
私も太鼓を叩きに毎年お手伝いで随喜(出仕)
太鼓の最中に洒水作法
御祈願中にお詣りの御信者様もお焼香
お焼香のあとお詣りの方々はお数珠に触れながら(撫でながら)お地蔵様の周りを一周。
白檀のお数珠も16年以上が経ちだんだん飴色に年季が入ってきた。
参道は住職の配慮でテントも設営して暖房機も置いてあったがお寒かったのでは、、
お詣り皆様の本年のご健勝・家内安全・心願成就を祈念。
TNX Fhoto by 常徳寺 Staff
節分追儺式 豆まきは2月3日が日曜日なので暦通りに執行させて頂きます。
家内安全・心願成就の為に年男・年女に該当なさらない方でもご遠慮なくお申し込みお願い申し上げます。
昨年の節分会豆まきのブログ http://blog.takuzousuinari.com/?day=20180203
初午祭に関しましては本年は暦の上では2月2日になりますが翌日の豆まきの舞台が本堂 向拝に設置されており御本堂にお入り出来ませんので本年に限り「二ノ午」の2月14日に初午祭を厳修致します。
お赤飯等の準備も出来ておりませんので呉々もお間違えの無きようお願い申し上げます。
昨年の初午祭のブログ http://blog.takuzousuinari.com/?day=20180207
またお陰様で境内の整備や霊窟(お穴さま)の整備も整って参りました。
初めてお詣りの方は都心部にこんな霊窟が有ったとはと驚き有り難いご報告も頂いております。
朽ちて取り壊した霊窟の社殿や鳥居も徐々に整備されました。
以前の面影を取り戻すために鳥居の御寄進のお申し込みも継続中です。
奥の院の観音堂まで鳥居を建立したいと考えております。
設置ご希望の場所はお詣りの節にご説明をしたいと考えております。
江戸時代からの面影・環境を残すためにご協力を頂けますならば幸甚です。
]]>蔵司稲荷とは深いご縁の有る江戸消防記念会第四区(だいしく)、並びに木遣り親声会。
先日も椿山荘・錦水での「第四区頭取新年の式・大盃の儀」に来賓として参列させて頂いた。
1月10日の椿山荘での第四区頭取中の大盃の儀のブログ
http://blog.takuzousuinari.com/?day=20190110
本日は江戸消防記念会第四区の「第四 筒先睦」(第四 筒先・道具中)の新年の式「大盃(おおさかずき)の儀」が澤蔵司稲荷で執行された。
本日は例年よりも遅く午後2時半の開式予定で正午頃には筒先・道具中が集合して準備が始まった。
書院での打ち合わせや本堂での準備
先日の椿山荘での頭取新年の儀の大盃は輪島塗で第四区所属10組の纏(まとい)の描かれた酒器だがこちらは少し小振り。
第四区の立派な酒器は先日のブログでご紹介済み、、、
しかし小さな酒器だがお盆、酒器、盃にも「第四」の紋が描かれている立派な酒器。
江戸消防記念会は東京都の23区(江戸川・葛飾を除く)を江戸町火消に倣った旧6地区と昭和23年以降に加入した5地区の計11地区に地域割りし、これを「区」と呼んでいる。
区の下に「組」を設け、これを番組と称し、その総数は87組に及んでいる
各組には独自の纒が1本ずつ配置され、その纒を中心に組織的な活動を行っている。
会員は正会員(組頭・副組頭・小頭)と準会員(筒先・纒持ち・梯子持ち・若衆)併せて約800名。
各区の組頭の中から、総代・副総代・幹事を各1名選出し、更に総代から会長・副会長を選任し記念会を運営している。
また、会員は火消気質と言われる良い意味での「義理と人情と痩せ我慢」を信条とし、祖先を崇拝し、目上を敬い、古い伝統やしきたりを重んじるという日本人的日本人の気質をもっており、このような共通した人間性を柱とした固い結束が会の支えとなっている。
本日の筒先中・道具中は準会員であり「第四区」は名乗れず「第四 筒先・道具中」
澤蔵司稲荷に奉安されている木遣り不動尊の前に「睦」の軸が掲げられた。
9年前に第四区から奉安された「木遣不動尊」
午後2時過ぎから来賓もお揃いになり2時半からまず澤蔵司稲荷本尊前で護摩供。
護摩供後、脇陣の「木遣不動尊」前で御祈願。
その後、堂内の設えを大盃の儀の為に準備。
「大盃の儀」
本年の年番(輪番)は一番組。
「口上」後、「大盃の儀」
「大盃の儀」開会の「お手頭拝借」後の大盃。
上席から「大盃」の奉盃 第四区総代へ
私も頂戴した。
一巡して「大盃」は納めらた。
祝いの新年の木遣り奉唱
目出度く「大盃の儀」も納められた。
その後、総職(筒先・道具中総責任者)の挨拶、
来賓の総代の祝辞と共に私も祝辞と御礼を申し述べさせて頂いた。
目出度く木遣りと手締めで納められた。
毎年の事だが若い衆の凛々しい姿に感激。
しかし第四区は良き指導者に恵まれ頼もしい限り、、、
本年も桜の頃や11月の紅葉の頃にはそれぞれ10日間ほどの梯子乗りと木遣りの稽古が澤蔵司稲荷境内と書院でおこなわれる。
本年のご活躍と繁栄を祈念。
足かけ9年前の2010年10月に澤蔵司稲荷に奉安された第四区木遣り親声会の「木遣不動尊」
2010年10月10日のブログ
http://blog.takuzousuinari.com/?day=20101010
2010年10月11日のブログ
http://blog.takuzousuinari.com/?day=20101011
これは是非ご覧頂きたい、、、
この儀式も門外不出、一般の方はご覧頂けないが先日の椿山荘での新年の式と同様に皆様にも是非ご紹介がしたく写真を撮らせて頂いた。
本日の儀式は護摩供以外は副住職が撮影。
これからも初地蔵尊祭、初不動護摩、、自坊でも節分追儺式(豆まき)、初午祭(本年は二ノ午の2月14日)迄続く、、